20190109

『社会現象と存在するもの』

太宰治さんについてのある批評を読んだ、弱さを武器として使用した、太宰治についての感想。いわんとするところは、すごくわかる。ある部分で、純文学を志す人特有の感覚は理解できるため、尊敬を持つ。ただ、その表出の仕方が、芸術絶対主義的な人とは相反する可能性が出てくるのだろうかと。

この批評について、すごく印象に残っている部分がある。太宰治は社会現象であるため、時代とともに動くという言説。後世まで残るものは、時代の流れを考えていないもの、ただ、そこに存在するものとして。

信念といえば聞こえはよく、執着という泥くささが、時代という激流に耐えて、残ったのものだと思う。迎合するのか、そこに存在するものとして、ひたすら磨いていくのか。選択は自由が故に思い悩む。寝る、食べるが前提であり、そこをクリアしているこその悩みというのも理解できるが、浮かんでくるものは仕方がないのである。

目が良くなればなるほど、迎合するのがまどろっこしいと感じる。考えろ、他に方法はないのか。迎合の方法にしても、諛う必要はない。どうしても世捨て人にはなれそうにない。世捨て人とは、ほぼ強制的に参加させられた資本主義というゲームをやめてしまうことではないか。生まれた以上、病まない程度には自分で解決できるように。

(2019年1月9日 心象記より)


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20190115



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