『反問ゆえの煩悶』
移民するのにも、命がけ。日本が経済的に裕福であるのは、誰もが知るところ。ゆえに、余剰が作品を生んでいるのか、と、思えば、余剰どころではない場所では、芸術は生まれないのか、と疑問を持ったり。
今の自分はきちんと形にできたものを入手できる。パッケージされた音を聞いている。耳が聞こえる限り、もちろん、咀嚼音や歩く音など聞こえる。それらを形にするから後世に語り継がれる作品がうまれるのだろうか。
形に残すことは余裕がないとできない行為なのか。
録音する仕組みがないと、二度と聞けない(反復できない)。
そもそもそれどころではなかったりする世界もあるが、音を一つのパッケージとする視点は生まれる気もする。
組み合わせ。人は自然をサンプリングし、技術として生かしたりしている。ただ、その視点を持てること自体に余剰があるかないか(貧富の差)が関係しているのかもしれない。
そんなことを考え、考え、思考があちらこちらに、ああ、倒錯気味。
(2019年1月15日 心象記より)
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