『言葉そのものより、その扱いに対するその人の姿勢が居座る。』
平穏な心が瞬間的に沸点を迎えたかのような、渋谷ruby roomで様々な思考から繰り出される言葉を2時間ほど浴び続けた。
「像」か「響」かわからないが、しばらく残る。言葉そのものより、その扱いに対するその人の姿勢が居座る。色んな方と出会い、楽しく過ごしたのに、どうして感覚は鋭敏になるのだろう。何をすればいいのか、どうすれば。いっそのこと詭弁家にでもなれれば。
自我における比較は災難を起こす、それを艶美に表現すると細部に神は宿るとなるのか。声に出さずに堆積される妄念は、危険を孕む。思考と感情がまた離別を始めた。
でも、幸福もたくさん居残っている。
(2019年6月3日 心象記より)