『自己の方針を定められるのは、「感情」と「前提にある価値観」』
利害関係をどう捉えるのかで社会的な立ち位置は変わる。もっと絞って言うと、「お金を稼ぐ行為」をポジティブな行為とするか、ネガティブな行為と設定するのか。私は利害関係をなぜか悪人の企みと考えてしまう傾向にある。それは行き過ぎた繊細のようにも思う。ある人にとっては、なんてことのない大人のマナーであるのかもしれない。
皮肉的に捉えすぎるのも毒と。そして、それについて考えていること自体が、そこに変なこだわりかわだかまりか、希望と不安が混在しているのだろう。得てして、人間の生き方は感情に沿っているものである。客観的に事実や性質を抽出し、そこからの判断は理由付けとかではなく感情。生きていくとは、”正しいが存在しない状態”で、「自分なりの正しい」を判断し作っていく。
そういう自己の方針を定められるのは、前出の「感情」と「前提にある価値観」だと思う。その前提の価値観を作るのが環境や教育ではないのか。親に対するコンプレックスを持つと、それを乗り越える為にどうするかというのが、その個人にとって大きな問題となる場合が多い。その個人の社会に対する活動もその根(コンプレックス)を反映させているのではないだろうか。コントロールは自己に対してのみ行える。それを活用し、自己の精神を鍛錬し、柔軟な器を創る。
全然関係のない話を。数年前、どこかに出かけるときは後ろのポケットに本をしまっていた。思考からの逃避、そういう意味合いで文字と付き合っていた。明確な理由はないがパタリと読まなくなり、数ヶ月が経った。最近、阿佐ヶ谷に行った時、古本屋が目に入り立ち寄った。200円くらいの中古の「絵画から読みとる聖書」という本を手にした。
久しぶりに本を読んでみた。文字を目で追うのではなく、文字がばっと頭に入ってきた。「読む」というより「見る」に近くなっている。久しぶりに読んだからそうなったのか。なんともいえず嬉しかった。
(2019年7月17日 心象記より)