20190726

『全く自分ごとではない現象や事物に触れることで、自己の感覚も変化していく』

生まれて、物心がついて、それなりに経験をする。目に見える見えないに関わらず、その経験から得た法則を活かしていく。そういう意味では経験は個人的な側面がとても強い。自分の経験だけではなく、身近な人、また、知り合いの人など一人ひとりのパターンを考察すれば、想像力が身につき、「まとも」に近づける。

ただ、それと歴史から学ぶのは、また違うフェーズ。当たり前だが、自分が生きてきた年月しか生きていない。約30年。常にその感覚というか、「当たり前が当たり前である」と気がつくのは難しいように思う。

その原因は、疑問を挟む余地が特にないためではなかろうか。ビスマルクさんの「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」は誤訳らしいが、経験だけでは補えない要素が歴史を見ることで浮かび上がる。

歴史を齧って、何よりも感じたのは自分が生まれていなくても、人は生きていて世は続いていると。生まれた瞬間(記憶できる瞬間)から始まるのではなく、ずっと続いている。その事実を少し深いところに落とせたような。全く自分ごとではない現象や事物に触れることで、自己の感覚も変化していくように思う。経験とはまた違った階層で。

歴史の出来事の当事者にはなれないのだから、俯瞰的に観察して、また、当時の物品などから想像を膨らませる。「知ること」で解決できることもあるのではないか。自らの特性を考慮すると社会とそういう携わり方をできるのかなと、何となく。

(2019年7月26日 心象記より)


20190717
20190806



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