『行動と感情をわけていく。そんな日々を暮らす。』
同じ言葉をかけられてもすごく腑に落ちる時と、そうでない時がある。その人の無意識の階層までに落とし込めているかで、その言葉の重さは変わる。
一般的にナイーブな人、他者の言動が心に残ってしまう人は、感度は高いが心に残るため固執的になり、考えが一辺倒になりやすい。信じることにより自分を安心させる逃避行為に近いのかと。繊細な人の捉え方は的を得ているが、それだけではないと。書いてみたものの、頭では理解しても心は、そうは簡単に問屋が卸しません。忙しい。
「コミュニケーションはお互いが納得すれば成り立つ」、言い換えれば、コミュニケーションとは勘違いの連続。相槌は「了解」を示し次の展開へと進める。所作、表情、言葉、それらを使用して。真実かどうかではなくて、認識だけ、仮想。それはまるで、プロトコルのようだと。
知らないふりしたり、知っているふりしたり。そう考えると、コミニュケーションは無機質な行為であり、一種のゲームのような。特に利害関係での繋がりの場では、そういうゲームがあちこちで行われている、とだけ考えるのも斜に構えているみたく。
客観視するとは、世界に血を通わせない鍛錬なのか。もうしばらく、探ってみる。行動と感情をわけていく。そんな日々を暮らす。
(2019年6月13日 心象記より)