20190710

『観察者の私が被験者の私をただ眺めている』

調子が悪い内面をひたすら綴っても、仕方のない。せめてもの拠り所ではなく、心象記は感情の揺らぎを記録した極めて個人的なものである。観測すること、記録すること。その行為自体が面白いと思えるように。小説や詩もしかり、その個人の心象の記録は、また誰かの内奥に届き、新たな創造物を生む。

ここ2日、精神的な調子は明らかに良くないが、いってみれば、ただそれだけである。観察者の私が被験者の私をただ眺めているのだ。調子の悪さを素直な詩にしてみようというアプローチ。
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ひたすらだ ひたすらにいたいのだ

苦肉の策は もろともやぶれたのだ

だが待て あきらめろ

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この感覚をどう昇華するかという問題。壮大な空、雨が滴る葉、そういったものに心を反映させる。自然への傾倒か、ただ被験者の私は観察者の私の視線に気付き、そうはいかず、今日も社会とまぐわう。

(2019年7月10日 心象記より)


20190709
20190713



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