『ユニバーサルデザインという言葉がある。』
以下、ウィキペディアからの引用。
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文化・言語・国籍や年齢・性別などの違い、障害の有無や能力差などを問わずに利用できることを目指した建築・製品・情報などの設計のこと
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内なる性質を表象化させたものを表現とすると、(上記のウィキペディアから引用した意味において、)”普遍的な表現”とは存在し得るのだろうか。あらゆる可能性を内包させ設計するという、理想のような手法。
そもそも個が目立つものは、文化や年齢、得意/不得意を含む広い意味での障害、(その過程は自覚的かどうかの差はあれど、)それらを基に加工し組み立てられている場合が多い。少し話はそれるが、目を瞑って音楽を聴くとよく聞こえる。頼っている器官がなくなると他の器官が補おうとするのか。視覚は危険を察知するのに役立つが、察することが想像力を奪っているのかもしれない。目をつむると察せられない状況。視覚がダメなら聴覚。音で危険のようなものを察知しようとするから、音がよく聞こえるのか。抗えない本能を逆手に捉えれると、質の良い鍛錬に繋がる。
あらぬ方向に話が飛んだが、表現云々ではなく、単純に機能として簡単に利用できればユニバーサルデザインは素晴らしい考えのようにおもう。生き残ろうとする本能は、独り勝ちを目指す。それに抗うのは理性である。”理性”とは可能性であり、人間に与えられた素晴らしい武器と考えている。自由意志の発達。共生へのヒント。
(2019年9月16日 心象記より)