『作者と鑑賞者、想像力の委ねあい。』
2020年、東京。
上限のない時間が流れている。想像として存在する都会と、人混みにまぎれて同じ帰り道をいつも歩く。これといった核はひとつとして創造されず。そもそも核なるものが存在するのだろうか。言語であらわせない感覚を表現しようと筆をすすめる。それは言葉を媒介した表現であること、矛盾、百も承知である。
その矛盾を乗り越えた、それのみによって成り立つ、捨象化した美しい文章もあり得るのではないだろうか。肉迫した、生の人間を感じられる。そういった前提の元で。創作は音や言葉や絵など、記録として残る、何かしらの対象物が必要である。そして、残るものである以上、技法が存在する。
作品のみを鑑賞者が享受する場合、”残ったもの”以上のものを残せない。そこに”残ったもの”で鑑賞者は評価をする。鑑賞者側からみると、その入り口、インターフェイスからしか、高いコンピューティング能力を有していても、作者の内にはアクセスできないのである。アクセスする方法としては、想像や感覚といった概念的なものになる。
つまり、作品は感覚や心を通じあわせた曖昧なものである。作者と鑑賞者がいる以上、大掴みに言えば合作である。
作者と鑑賞者、想像力の委ねあい。
(2020年01月04日 心象記より)