『人間とはなんぞや、という疑問がいつもついて回る。』
考えること自体に感情が付随しているわけでない。思考と感情が同じ空間にいることにより、思考という行為が”悲観的である”と認識している。改めて。早速、分別。
悲観的な世界には、魔法のような力がある。悲観か楽観の性質の面ではなくて、単純にそのエネルギーに惹かれているのか。極論を言えば、興味のある/なしも生命に危機が及ぶかどうか、なのだろうか。人間の行動原理とは。
実感を伴う言葉はなぜ説得力があるのか、実感を伴っているからだけど。実感を伴う、真にその人に根付くと言葉は力を持ち始める。それは明らかであるが何故だかわからない。最近、色々と話して教えてもらえる人ができた。なにか変化の予感がする。
以下、忘備録。
・言葉にしてしまうことによって、自己による認識が始まり可能性が減る(?)
・善悪は環境 共通認識?が作り出す(生存にとって利益になるかどうか)
・同化しなくても連鎖する-現象としての同化(つられて笑うなど)
・コミュニケーション、伝達は生存確認
剥いでいくと、今言葉にしているのも、生きているという主張をする行為に当てはまるような、溢れたものを言葉に置換する。人間とはなんぞや、という疑問がいつもついて回る。
(2020年04月16日 心象記より)