第25編

楚囚之詩──翻案
原作・北村透谷 翻案・遠藤ヒツジ


自序に向かう自序

 余は遂に一詩を作り上げました──

この一言から始まる北村透谷の自序文は「達成」というより「遂」という言葉を惹句として「遂げた」というような終焉のイメージを思わせる。遂は終でもあり(厭世家の性分を含んで考えれば)墜でもあろうし、現在形の「遂げる」ではなく過去形の「遂げた」を意味することと思われる。
透谷はこの詩を書き遂げた瞬間に、言い知れぬ全能感を得たであろう。まさにバイロンの描いた「マンフレッド」の獲得していたような何かを、自らの全身全霊を込めた原稿に写し出したことによる全能感を。
私も詩を書いた瞬間にはそんな気持ちになる時もある。そんな時は大抵、ナルシシズムに囚われて、その詩が最上の一篇であるかのように何度も何度も読み返す達成の過熱する感情が迸っている。しかしそれも一瞬のこと、粗熱をとって、再びその詩に目を交わしてみれば、「どこかの不足」というものが感ぜられる。満足の中に不足があり、その不足はやや歪な形をしているが、修正して良い詩になるとも限らない。歪を正すうちに、僅かにどこかに新たな歪みが生じ、つまり光だけの詩は生まれ得ないし、そんなものはおよそ癖のない通り一遍の味気ないものとなる。であるから、詩人であるときの私は、その不足も愛することで自らの個性をその部分性(パーシャリティ)に託すことができる。
私が失敗に惹かれるのは、そんな不足を愛する故かもしれない。北村透谷は新進気鋭の詩人であり、思想家であり、文芸批評家であったことは疑いの余地もないが、その完璧主義的な気質は翻案の元となった『楚囚之詩』を、発刊直後に後悔の念に駆られ、自ら回収した逸話を聞けば想像に難くない。
 日本古来の文学観や文化から飛び立とうともがき、西洋文化や文学観の流れ込む奔流の内で足掻いた彼は、西洋文学の思想や手法を自らの文学にミックスさせたパンク精神の文学家であると彼の一ファンの私は空想し誤読するばかりである。
 そんな透谷の詩は青空文庫や電子書籍では容易に読むことができるが、紙版の書籍に限って言えば、唯一入手できた岩波文庫の『北村透谷選集』すら品切れとなり、古書を探す他ない。
 そんな彼の詩をなるべく現代語的な語彙の選択によって翻案を試みたのは単なる興味が先走ったに過ぎないのだが、ここから始まる透谷の詩の翻案(リミックス)から透谷に触れる読者がいれば良いと願ってのことである。

 別件のレコーディングがあった日に、戯れで朗読した「楚囚之詩・翻案」をアーティスト・笹谷創さんが見事な一曲に仕立て上げてくれた。改めて御礼申し上げたい。
 書籍商の手は介していないけれど、またこれは一般的にイメージされる文学作品の朗読ではないけれど、ぜひ一聴いただけたらと願っている。

令和五年十月二十日 大師橋付近の住居において
遠藤ヒツジの名によって謹んでここに記録する

「楚囚之詩(Remix)」 – 遠藤ヒツジ,笹谷創



自序

 私はついに一編の詩を作り上げました。大胆にもこの詩を書籍商の手を介して、知己に富み文学に志を持つ世間一般の読者の皆様に分け隔てなく与えることまで決心をいたしました。しかし、実のところ躊躇する思いもありました。私は実に多くの歳月をこのような一編を作ることに腐心しておりました。しかし、いかにもこの一編は非常なる改革の詩作品であり、大きな艱難に至る険しく苦しい詩業であったために、明治二十四年の今日まで黙していたのです。
 ある時は翻訳してみたり、ある時は自作してみたり、色々に私は試みますが、底を覗いてみればこの一編に見られるような人間であります。つまり近頃の文壇には新体詩とか変体詩とかの議論が盛んに行なわれておりまして、気概のある文学家たちは手に唾をして、このような大革命をやってやろうという野心を胸に、数多くの詩歌作品が多くの文芸・同人雑誌の誌上に現れ出でたのです。これら一切の行為が私を激励し、背中を押し、筆を走らせてくれたのです。これが私を文壇に歩み寄らせて、近づけてくれたのです。
 私はこの詩が世間一般に与えることはいたしますが、決して受け入れられなくてもよいのです。しかし、私が確かに信じていますことは、私たちの同志が皆で協力して、その志を貫く思いを持っていることです。その思いが続いていくのなら、狭まりゆく思想の古来伝統の詩歌を進歩させて、今日に流行する小説のように最も優美にして霊妙なる作品を成すことが可能であろうということを信じているのです。
 幸いなことに私はまだ年少の身であるために、良きこの詩「楚囚之詩」が読者の皆様の嗤笑を買い、皆様の心身を傷つけてしまうことがないとも限りません。私はその一方で、この詩が読者の罪を償い得ることも、またあるだろうとも思うのです。
 なによりこれは古来伝統の国語、いわゆる詩や歌ではありません。むしろ小説に似ているのです。しかし、これでも詩です。私はこのようにして、私の詩を作り始めましょう。またこの詩にある〈楚囚〉は今日の時代の寓意ではありませんから獄舎の様子なども異なっています。ただ獄中にあるという感情、境遇などを些か用いた程度です。

明治二十四年四月六日 透谷橋(すきやばし)外の住処において
北村門太郎の名に於いて謹んでここに記す

第一章 囚われの独白

かつて誤って法を破り
政治の罪人として囚われた

俺と生死を誓い共に歩を揃えた自由民権運動活動家たちが
いまだ数多くある内 俺はその首領である

特筆してその内の 俺が最愛なる
まだ蕾である いずれ花となる少女も、

御国のために諸共に
この少女の 花婿も 花嫁である少女にも

第二章 囚われの身

俺の髪がすうと長い いつの間に伸びていただろう
俺の額をすっかり覆い 両の眼を遮り 重たい
肉はこけ落ち 骨は浮き出て 俺の胸は常に枯れている
沈み 萎れ 縮み 憂鬱

これら一切は歳月を重ねたためではない
決してそのような時間の故のみではなく
また疾病に苦しんだためでもない
決してそのような身体の故のみではなく
浦島太郎の帰郷した時空の超越というのも
似つかわしくはない
俺の口は枯れている 俺の眼は落ち窪んでいる
かつて世情を扇動する弁論をなしえた俺の口も
かつて万古を貫き見通した俺の活きる両眼も
もはや今 口は腐り果てた空気を吸い込み 腐臭と共に吐き出す
もはや今 眼は視界を阻む暗い壁を睨みつけ
かつ俺の両腕は曲がり 両脚はしなる

囚われている 望郷の思いを捨てることはできない
世を見晴るかす太陽はあんなにも遠くにある
俺は一体なんの罪咎により憂いを感じるのか
ただ御国の前途を照らし
その方向と距離を定めていた
俺の影は未来に向かって方位も時も計ったというのに
俺は一体なんの罪咎憂いを歌うべきなのか
これは一体なんの結果なのか 証拠資料を俺の内に探すべきか
可か不可か 可きか否か
世間の民のために一人の民として尽くした故の
結果が俺の影を暗がりに引きずり込んだ

だけど孤独であったのは俺だけではない
俺の祖父は骨を戦に枯れた野原に晒し
俺の父は御国のためにその命を投じた
俺は 俺の世代に向けて 望郷を想いながら 今を囚われて
永久──とこしなえに母を離れるのだ

第三章 四者の棲家

獄舎 些末なものだが 俺を惑わせ 迷わせ 招き入れた獄舎は
二重の壁によって世界を隔てている
しかし その壁の隙間や また開いた穴を潜って
逃げ場を失い 追い縋り 駆け込んでくる日光もある
俺の青褪めた片腕をせめて照らそうとして
壁を伝って 俺が膝の上まで その光源に向かい歩み寄り
俺は喪心しながらも 重たい頭をもたげてみれば
この獄舎は広く かつ 虚しい

獄舎の内 四つのしきりが境となって
四者の罪人が打ち揃う──

かつて生死を誓い共に歩を揃えた自由民権運動活動家たちが
無残なことだ 狭き籠に繋がれて
自由を奪われている

まるで山頂にとまった鷲のようであったのに
悠々 喬木の上を舞い
支配から外れて青天を旅する
一度は 山野に自らの権威を振るい
荒々しい野の熊をも恐れさせる
湖上の傍に住まう毒蛇の巣を襲う
そんな世間に畏怖されていた者たちばかりであるのに
今はこの狭き籠の中 憂いの吹き溜まる棲家

四人は一室に膝を揃えながら
物語を語ることは許されない
可か不可か 不可であるこの棲家
四人は一室に共有可能な思想を持ちながら
その思いを伝え運ぶ術さえ喪われている
各自 限られた場所の他へ
足を踏み入れることすら叶わない
ただ相通じる者として
同じ心の内に溜息を吹き溜まらせる他ない

第四章 花嫁との想い出

四者の中には、美しい
俺の花嫁……若々しかった
その頬の色は消え失せて
顔色はあの頃と別れを告げて 悲しみに暮れる
俺の胸を撃つ
その物思いに耽った眼つき

彼女は俺と故郷を同じくして
俺の手を携えて 共に都へ上ったのだ──
京都に出てきて 琵琶を後にして
三州の肥えた土地を過ぎて 浜名へ到着し
富士の麓を抜けて 箱根を越えて
ついに花の都へ辿り着いた

愛というもの 恋というものには しなやかな艶があるけれど
俺たち二人の愛は魂にあるのだから それとは異なる方位を向く
花の美しさは たしかに美しいものだけれど
俺の花嫁の美とは、花びらよりも双方の蕊にある
梅の枝に留まり 囀る鳥は多情であるが
俺の情は ただ一つの赤き心にある
彼女の柔らかな手が俺の肩にあるとき
俺は幾度も神に祈りを捧げ給った
しかし つれないことに風に妬まれて
愛 望み 花 いずれも萎れていった
一夜の契りも結ぶことなく
花婿と花嫁は獄舎にあるのだ

獄舎は狭い
狭い中にも両立する世界がある──
彼方の世界に俺の半身はあり
此方の世界に俺の半身がある
彼方が宿か
此方が宿か
俺の魂は今
日夜を一人 迷っている

第五章 あとの三者と魂の行方

あとの三者は
少年の活動家たちである
ある者は東奥から、ある者は中国から出てきた
彼らは活動家の中でも俺の愛する
勇猛な少年たちであった

しかし見るがいい
彼らの腕が縛られている様を
流石にその様には怒りの色も現れない
怒りの色 何を怒るために色づくのか
自由の神はこの世にはいないのだろうか

とは言え、なお彼らの魂が縛られているわけではない
豪胆にあちらこちらの山川を舞うように飛び回り
あの富士山の頂に彼らの魂は留まって
雲に乗っかって 月に戯れていることだろう

どうにも穢れたこの獄舎の中に
彼らの清浄なる魂はひと時だって留まることはない
このように述べる俺の魂も獄中にはいない
日々 夜々 軽く獄舎の窓から逃げ延びて
私の愛する彼女の魂の跡を追っていく
そして共に、かつての花園に舞い遊び
塵なく 穢れなき 地上に舞う 紫の花びら
その名前は 秘められた忘れ得ぬ真夜中
その他 種々色々の花を優しく摘みながら
一房を俺の胸へと差してかざし
他の一房には俺の愛を分け与える

はたと気づけば これは夢である
見るがいい 俺の花嫁が此方を向いている
その痛ましい 物々しい姿を見るがいい

ここは獄舎
この世の地獄
である

第六章 太陽と月

世界にある太陽と
獄舎にある太陽とは
異なるものである
獄舎の内は日と夜との境が薄く
なぜ俺は……
昼に眠ることを習慣として
夜の静かな時間に覚めているのか

一夜
俺はしばらく座ったまま
眠りを貪っては起き上がり
重たくなる両の瞼に開くことを強いて
辺りを見回せば暗さはいつものことであるが
それでもなお差しこむ朧なる光……月光
その光を月と認めれば 俺は胸に絶えない思いの種を吐き出し
仮に と月へ問いかける
今夜の月は 昨夜の月であるか と
応か否か……応である
踏んでも消しても 消えることのない 月光の明るさ


まだ今より若かったとき かつて富嶽に登って
近づいて その頂から眺めた 美しい月の姿
月こそ美の女王
かつて隅田川に舟を出して
花の懐にも貴女との契りを込めたのだ
同じ月であるのに しかし俺には見えず
同じ月であるのに しかし俺には来たらず

呼んでも 招いても
もう貴女は 私の友とはなってくれない

第七章 夢の誘惑と月の誘い

牢屋の番人は疲れてよく眠っている
腰まで浸かった澄み切る秋の水の重たさ
夢中の者は俺の覚めたことを知らない・・・・・
眠りの内にある極楽……番人は心地よく眠りに就いている
二枚の毛布の寝床にも
女神の眠りはいと安くやって来る
俺は幾度も軽く足を踏んで
愛する人の眠りを覚まそうとした
しかし両目の内に憂いを持たない者を目覚めさせ
月を再び招かせることは
両眼を鉄の窓の方へ向けさせて
俺は来るともなく窓下へ移動した
逃げ道を得るためではなく
ただ足の赴くに任せて来たに過ぎない
漏れて侵入する月の光
その光の様相 望郷のような懐かしさ

第八章 記憶の残り香

想念は疾走する 往く過去は日々に新しく刷新する
あの山 この水 あそこの庭 こちらの花 数多の物に俺の記憶は残っている
あの花 俺と母と 俺と花嫁と
皆が共に植えた花にも 別れを告げて
思えば 俺は暇を告げる余裕すらなかったのだった

誰に気を遣うこともありはしないが、密やかに
俺は獄舎の窓に身を寄せている
世界の音によって届く知らせ
訪れがあるだろうと待つことは糧となるが
しかしこれは何物だ

送られてくる慎ましい菊の花の香り
俺は思わず鼻を近づけて
望郷の我が家の庭に咲き乱れた菊の花を忘れていた

遠く西国まで俺を見舞うだろう
俺の思う友は

恨むべきはこの菊の香り
俺の手が触れることは叶わない

第九章 往ってしまった者

また一つの朝
俺は遅くに目覚め
高い壁を伝って這い上る日の光を見る

俺は花嫁の方へまず目を向けた
どうして 影のない花嫁
思えば彼女は他の獄舎に送られたのだった

俺は眠りの中に移送された
我が身の憐れを嘆く
せめて一目
せめて一見

(なぜ言葉を交わすことも許されないのか)

とこしなえの永別 そのための印を交わすことも叶わずに
三者の少年活動家の皆 影をその身に留めない

一人 この獄舎に 俺を残していった
朝の眠りの内に見る夢こそ偽りである
偽りの夢である 皆ともに往ってしまった
往ってしまった 俺の愛もともに
往ってしまった 同志の友たちも
往ってしまった 往ってしまった

第十章 喪心の身

倦怠感が心身を襲って
記憶も歳月も皆ともに過ぎ去ってしまった
寒くなり 暑くなり
春が過ぎ 夏が過ぎた
暗がり 憂鬱 俺は感情を失った
今はただ膝を抱えることだけを知っている

罪も望みも 世界も星座の瞬きも皆ともに燃え尽きた
俺にはあらゆる者 皆ともに・・・・・無に帰した
ただ寂寥の心に空風が吹いて・・・・・
幽かなる呼吸に聞こえるだけ──

生死の闇が鳴り響く
甘き記憶の愛の花嫁も
身を投げうった御国のことも忘れ果て
もう夢とも現ともつかぬ我が身の事情

数歩も歩めばたちまちの壁
三度も回れば疲れる
俺の脚の萎え

第十一章 化身ではない蝙蝠

俺には日と夜との区別が
もはやない

しかし倦怠の内にある俺の耳にも聞こえる
明朝 鶏の鳴き声 巣へ急ぐ 烏の鳴き声
とは言えその形を見ることはない
想像の内に姿を象る他ない

一つの宵の口
俺はいつもより早く木の枕を
窓の下へと押し当てて
眠りの女神が来ることを祈った
しかし この疲れた脳は休まることなく
半ば眠りて──かつ死んでいる
半ば目覚め──まだ生きている──とは願わぬこと

突如 窓を叩いて俺の霊魂を呼ぶ者がある
俺は過去の花嫁を思い出し
弱くなった腰を引き起こして
窓に登ることを試みた

これはどうしたこと
何者かが俺の顔を撃つようにして
世界の生物がはじめて この獄舎に見舞い客として訪れる
その者は獄舎の内を狭いとは思わず
上梁部分の下に捕まり 自由にその羽根を伸ばした
俺はそれを仰ぎ見た

良き友である その者は太陽に忌避された蝙蝠
この退屈な棲家を厭わずに訪れた
俺は蝙蝠を想い見る
この蝙蝠は決して花嫁の化身ではない
約束し 望み願ったものは ついに叶わなかった
忌まわしい姿を象り 俺を慕いに来るとは
なんとも憐れなこと
俺は蝙蝠を去らせようとする

第十二章 蝙蝠との別れ

俺には穢れた衣類しかないけれど
これを脱ぎ捨て 蝙蝠に投げつければ
蝙蝠は喜んで 衣類とともに床へ落ちた

俺は這いよって 蝙蝠を抑えれば
蝙蝠は鳴いた さも悲しいような声で
なぜ蝙蝠が鳴くのかと問われれば
まだ蝙蝠が自由を持つ身であるからだ

恐れることはない
捕らえた者は自由を失っている
その身を捕らえるのに・・・・・野心が絶えていないのであれば
これは一つの蝙蝠に過ぎない

俺の花嫁はこのような憎き顔ではない

しかし俺は蝙蝠を逃がすことができなかった
なぜ……この生物は俺が友となるならば
この獄舎にいる理由も生まれるだろう
そうして……しばらくの間 蝙蝠を獄舎に留め置いた
しかしどのようにして 彼を留め置くか
俺には既に力がなく
この一つの獣を留め置くことさえできるか怪しい

そして痛ましいことだ
まだ自由の身である
この獣にとっては

結局 俺は蝙蝠を放った
自由の獣……蝙蝠は喜んで
羽根を広げて獄舎の窓から逃げ出ていった

第十三章 昔日の記憶

恨むべきは昔の記憶の消えないこと
昔の若き日 楽しかった故郷
暗い中にも 回想する眼はなんとも明るく

絵のように見えて
絵ではない故郷

雪を冠とする冬の山
靄を抱える谷の川
不変のその美しさは
昨日も今日も

──我が身一人の行く末が……
どのように浮世と共に変わり果てようとも

青天
今もなお そこに鷲は舞い飛ぶか
深淵
今もなお そこに魚は躍り跳ねるか
春よ 秋よ 花よ 月よ
夏よ 冬よ 鳥よ 風よ
これらのものはまだあるか

かつて俺の愛と共だって
歩み回った楽しい野山の影は今や
優しく摘んだ野の花か
耳の傍を優しく流れた谷川の楽器の音色か
これらは俺の最も愛した友であった

可か不可か 可きか否か
あるかなきかの問答は無用のこと
常に俺の想像が現前に聳え立つ
羽根があるならば帰りたい 再び
清貧にして 平和であった 昔日の庵

第十四章 鶯の到来と涙

冬は厳かに俺を殺す
聳え立つ壁を穿つ穴から差し込む日光も
もはや暖を俺に送らず
日は短く 夜はどうにも長い
寒さは瞼を凍らせて 眠りも俺に与えない
しかし いつかは春も帰ってくる

省みるものはなく
運命を破る俺にも
何いうでもなく春を待ちわびる思いは残っている

俺は獄舎の内より春を招き入れる
高い空に向けて
ついに俺は春の来たことを告げられる
鶯によって
窓の外で鳴いた鶯によって

知らない そこにどんな木があるのか
梅だろうか 梅ならば香りが風に送られるはずなのに

美しい声 鶯よ
俺は飛び起きて
獄舎の窓へ攀じ登る

鶯は俺の立てた音には驚くことなく
獄舎の軒に留まっていた なんとも静かな姿で
俺は再び疑いを強めた……この鳥こそが
本当に愛した妻の化身であろう
鶯は俺の幽霊のごとき姿に振り向いた
飛び去ることも恐れることもなく
再び歌いだした その声の美しさに
俺の幾歳月による憂鬱が払われた

鶯 御身の美しい衣は神の恵み
鶯 御身の美しい声の調べも神の恵み
鶯 御身がこの獄舎に足を留めることも
また神が……俺に与えた恵みである

そうだ 神は鶯を俺の元へ送り
俺の不幸を慰める 厚き心をお与えになった
夢に似て 夢ではない赦し
我が身にも……神の手は差し伸べられた
想い出す……俺の花嫁はこの世に今もあるか
彼女がもし往ってしまったのなら
鶯こそ真の化身であろう
俺の愛はなお同じように獄舎の内を彷徨うか
しかし ならば この鳥こそが彼女の魂の化身に相違ない
自由 高尚 美しさの妙なる調べを与えられた 彼女が
この美しき鳥 鶯に化ける理由に相違ない

そうして 再び俺の心に 憂鬱が訪れる
真の愛
俺の眼に涙は満ちて溢れて 獄舎を濡らす

第十五章 鶯と別れと誰を待つ

鶯はなおも歌った
俺はその歌に秘められた意図を解きほぐす

百種の言葉を聴きとれば
皆どれも俺を慰める愛の言葉であろう
浮世よりも 天国に近寄ったのであろうか
俺には神の御使いと見える
そうでありながら その鶯の有様は
まるで籠の中から逃れ来たようでもあり──

……俺を憐み同情を寄せているのか
俺が伴うものと思って
鳥の愛情 世界に捨てられた俺の身にも沁みる
鶯よ 御身は籠を出たけれど
俺は死に至るまでは赦されることはないのだ
俺を泣かせて 笑わせたとしても
御身の囀る歌は 俺の不幸を救ってはくれない
俺の花嫁 いや 鶯よ

哀しいことだ 彼女は去っていった

あれもまた浮世の動物に過ぎなかった
もし俺の花嫁であったならば 逃げ去ることはなかっただろう
俺は再び寂寥に打ち捨てて
この惨憺たる墓所に俺を残して
──暗く虚しい墓所──
そこに満ちる腐った空気
湿る床の冷たさ
俺はここを墓所と定めた
生きながら既に葬られているのだ 俺は

死よ お前はいつ訪れるのか
永く待たせることもないだろう
待つ人がいるのだから
俺はお前に罪を犯したのではないのだから

第十六章

鶯は俺を捨てて飛び去った
俺は更に憂鬱の内へ沈み込み
春は都にやってきているのか
たしかに都は今が花であろう

このような俺が空想を半ばに
久しく獄吏は俺の獄舎へ入ってきた

ついに俺は許されて
大赦と恵みに感謝をした
門を出れば 多くの盟友が集い
俺を迎えた
中でも最愛の花嫁は
走ってきて私の手を握った
彼女の眼にも
私の眼にも 同じ涙が滲む──
また多数の盟友は喜んで舞踏をした
さきほどの鶯も俺たちのまわりを周遊し
何度でも美しく妙なる調べを 皆へと聴かせてくれた



(文章:遠藤ヒツジ)

前編:モリマサ公『絶望していろ、バーカ』

『光よりおそい散歩』

 


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