生成AIは詩人から詩を奪うか?
今回のコラムのトップ画像は「ChatGPT」で生成しました。
◎ はじめに
2024年9月14日(土)に日本詩人クラブのシンポジウムに登壇した。テーマは「シンポジウム ─戦後79年─詩はどこへ IT時代の今考える詩の未来」であり、高山利三郎氏と原島里枝氏とともに詩とインターネットの関係を語り合った。
生成AIについて、各々理解の深度はさておき、多くの方が一度は耳にしたかと思われる。浅学な私のイメージでは、Web3.0時代のサービスの一つであり、非代替性トークン(NFT)や分散型ネットワークに並ぶインターネット革命の一つだ。
老婆心ながら簡易的に説明をすると、生成AIは文章によるコマンドプロンプトによって文章やイラスト、音楽や映像を制作するツールである。コマンドプロンプト自体はコンピューターの指示系統のために用いられている技術であるが、今まではいわゆるプログラミング言語などを学んでいないとちょっと手の出しづらい領域の専門的な分野の類であった。そのコマンドプロンプトが平易になり一般ユーザーまで降りて拡がってきたという印象である。難しい言語を用いなくても、簡単な生成くらいであれば「猫のソネットを書いて」という風に指示を出すだけで、猫にまつわる14行詩が完成する。
Web2.0時代のインターネット検索は「猫 ソネット」といった単語プラススペースの指示であるが、今回のサービスではより砕けた口語的表現が伝わるようになり、詩が文語調から口語調へと変化していったことと同様に、よりナチュラルな検索・使用が可能となってきた。
技術的な部分は私もさっぱりであるため、現在も試行錯誤しながら使っている。そのため、専門的な話にはぼろが出るだろうから、その前にそそくさと次の話題に移ろう。
◎ 実例
生成AIは詩人だけでなく多くのクリエイターにとって賛否両論あるものの、私は補助的な機能として有効だろうと感じている。
例えば、私は2024年7月に詩文集『谷ノ底、透ケル王国』を刊行したのだが、この内の一篇「蓬莱曲」の翻案にとりかかった際、その創作過程には有名な文章生成AIサービスであるChatGPTを用いた。
原則は私自身が透谷の「蓬莱曲」原文と睨めっこしながら、現代の読者にも読みやすいように、ということをコンセプトに詩の翻案を試みた。しかし、その過程で理解の難しい表現にあたる場合があり、その際にはインターネットでの検索の他、ChatGPTにも問いかけてみる。
問いかけは「この詩の一行を現代風に翻訳して」といった風にラフな指示を実践した。一例を出してみよう。
(原文)蝉の羽のひえわたる寝床にもねむりけれ、
(ChatGPT)蝉の羽の冷たい寝床でさえも眠っている
ChatGPTは、原文に対して、右記のような表現を回答してくれる。しかし、〈蝉の羽の冷たい寝床〉という表現はいかにも素っ気なく、意味やイメージも掴みづらいように思われる。そこでこの回答を参考にしながら、結局のところは以下のような翻案文とした。
(著者翻案)蝉の羽でできたような/冷え切った寝床にも/安眠は訪れるはずなのに
原文にある〈眠りけれ〉の〈けれ〉は逆説の意味を表すはずだが、ChatGPTはその点を無視してしまっている。そのため、翻案ではそこを加味して〈はずなのに〉と表現を改めた。
生成AIは過去のデータを元に文章を作成することができるが、その中には真実味をもって書かれているにも関わらず、内容は正しくない、というケースがある。そのことは理解して、ファクトチェックを怠らない姿勢と、依存しすぎないという態度が必要だろう。
◎ 筆者の態度
実際に使用していることから分かるように、私は生成AIに否定的な立場をとらない。詩を生成して、そのまま自分の作品として発表するということには詩作品の精度や作者の矜持という面で待ったをかけたい。だが、たとえば「詩の題材をランダムで生成」することや「詩について調べる補助資料」としては有効な側面が多くある。
詩に限らず、文学の現状は非常に先細りをしていて、テキストだけで他ジャンルと競い合うことは中々の難題であろう。そこで詩が発展する一案として【詩×○○】というような複合的アピールを検討するときにも生成AIはその能力を発揮する。
たとえば、生成した動画に自分の書いた詩のテロップを挿入して、その詩をAI音声に朗読させるように自分の創作である詩作(仮に詩的動画と表現しよう)を根幹に据えながら、その他の作業を生成AIに託して、複合的な動画に仕上げて聴者や読者にアピールを試みることはできるだろう。このような動画を他者の手を借りて一本作ろうとすれば大変な労力がかかる。自分が詩だけを書いたとして、動画の撮影者と編集者、朗読の外注が必要であり、それらに報酬が必要だと仮定すれば一本の動画を作るのに数万円は見積もらなければならない。
そして、そのような詩的動画を作りたいと空想しても、実際にそのような他者とのコミュニケーションなどを考えると億劫になってしまう場合もあり得るだろう。そのような場合にはAIを用いながら、自分のペースで色々なコンテンツを生成し複合させてテキストのみではない詩を読者に提示することができる。
◎ 生成AIの問題点
もちろん、この考え方には一つの大きな問題がある。それは(右記のような例でいえば)動画を撮影するカメラマンやディレクター、朗読をする声優などの仕事を奪っていると捉えられることだ。そして、その行為は当然、詩人にも跳ね返ってくる。カメラマンが撮影した動画にAI生成した詩をそのまま映し取られたら、それは詩人の仕事の機会が一つ奪われたという考え方もできなくはない。
ただし、私の認識としては、インターネットやコンピューターの発展・効率化に伴って何かが奪われるというのは大前提として有り得ることで、それは生成AIに限らない。エクセルやワードの誕生は電卓や紙のメーカーの仕事をいくらか奪っているだろうし、テクノロジーの進化に伴って不要となるものが絞り出されていくのは不思議なことではない。
ましてや詩的動画というものはおそらく商業的な成功を収める可能性は限りなく低い類の表現作品であり、一本の動画に数万円費やしたとして、そのリターンが金銭的に期待できるのかといえばそれはほぼないだろうと予測できる。
◎ まとめ
今までのことを踏まえた上で、私の生成AIへの態度を一度まとめてみよう。
① クリエイター自身の根幹の創作には、補助的な使用方法ができる(詩人なら詩そのものを生成せずにアイデアの萌芽程度に用いるべきである)。
② クリエイター自身の根幹にはならない創作には、複合性を用いた作品の発展に向けて十全に活用する(詩の動画を作りたければ、その映像などを生成する)。
③ 複合性を用いた詩的作品の営為は生成AIによって低コストで製作することが可能になると予測される。その製作を体験することによって、読者や聴者の反応を見ることができる。
最後にこの点は、自戒を込めて記したい。
④ 生成AIを②のように用いることを私は肯定するが、それは誰かの創作営為を機会損失させている点を想像し理解すること。そして自分にもその行為が色濃く影響しているということ。そうであるから、③のような体験および経験を積んだうえで、より深く高いクオリティの複合的な詩作品を作りたいと考えたときには、いずれかのタイミングで機会を逆に与えて相互に循環する機会を与えること。
④について、補足説明をするならば、生成AIにお世話になることはよい。それはお金や人脈がなくても、詩的動画を作ることができるようになったテクノロジーの発展であるから、使えるものはどんどん使うのがよい。その代わり、詩的動画にコストをかけてもいい、かけられる、かけるべきと感じるラインが見えてきたら、その時には映像や朗読を他者に依頼して委ねる機会を作ろうと一考する。そのような経験と成長から、生成AIだけでは物足りない欲望が生まれ、更なる広がりと深化が望めるかもしれない。
◎ 最後に
私は生成AIを否定しないが、生成AIに忌避感を覚える人の気持ちも分かるような気がする。しかし折角新しい技術が入ってきて、そういったものに関心があるのだから、まずは触ってみようというのが私の個人的な方針である。大切なことは、様々な立場を受け止めて、考えの強制や押しつけはせずに、興味あるものには共有を図り、詩の発展を検討するということに尽きるだろう。そして、その態度は詩のみならず多くの分野に該当する話題だと感じる。
宣伝であることをお許し願いたいが、ChatGPTを優秀な助手としながら編んだ北村透谷にまつわる詩文集『谷ノ底、透ケル王国』をAmazonにて販売している。気になる方はぜひチェックしてもらいたい。
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(文章:遠藤ヒツジ)