横光利一「街の底」に流れる映像的詩情
横光利一の名作「機械」は私という一人称で展開されながらも、その語り手の人情、人らしさが一向に垣間見えず、私という主格の中に舞台となる工場自体が融解している。そのようにして人称の輪郭を溶かしながら、登場人物たちをも機械の歯車の内へと巻き込んで渾然一体とさせた小説であると個人的には読める。同作者が『文藝時代』の一九二五年八月号に発表した「街の底」という短編小説がある。この作品は「機械」ほど複雑な趣向は凝らしていないものの、舞台の中の語り手を物語の駒のように移動させて街の底に沈んだ情景を浮きだたせ、語り手の心理を吐露させようと試みている。
本作の主な舞台は街中であり、その街に佇んでいる家である。主人公の人称は彼という三人称であるが、この語り手はほとんど街自体を映し自らの思考に没頭する物想うカメラであると言っていい。小説内で彼は三回台詞を発する機会が与えられているが、いずれも独り言ちるばかりである。小説の終盤に盲目の老婆がタワシを売りに来るという交流の場面においても、身の上を語る老婆に対して無言で売り買いを行なうだけに留まり、彼自身の行動・移動というものがほぼ意識を持たないレンズあるいはフィルターのような存在に思えてならない。
それではこの作品が風景描写にだけ徹底したルポルタージュのような性質の文章なのかと言えばそうではない。横光利一は新感覚派文学の旗手であったが怜悧なる知性を衒学として披露するのではなく、あくまで小説の追求のために用いた。そうであるため、「街の底」は小説として成立し、詩的感覚を携えた映像的表現が可能であったのだと思われる。人の眼を介して撮影される写真や映像が現実そのものを映すことがないように、語り手の思想を映し取る文章は詩情に溢れて美しい。街が主格を取り込んで街自体を語らせようと試みる機械的な仕様と、その手法を逆手にとるように心情を文学然として描き出す映像的方法とが歯車のように嚙み合った佳品だと言える。
冒頭では街の様子を克明に描写することで読者に没入感を与える。貧しさの中に生きる労働者たちと貴族たちの対比なども踏まえつつ、昼間には家で自殺のことばかりを考えて碌々働きもしない語り手に街の底の底という役割を与えている。自殺を思う語り手が隣家の窓から病人の乳房を覗いている内に、その乳房が眼前に迫ってくるという情景には、トラックアップの映像手法が見事に用いられている点は特筆するべきと思われる。
〈彼はその女の顔を一度見たいと願い出した。が、いつ見ても乳房は破れた塀の隙間いっぱいに垂れ拡がって動かなかった。いつまでもそれを見ていると、彼の世界はただ拡大された乳房ばかりとなって薄明が迫って来る。やがて乳房の山は電光の照明に応じて空間に絢爛な線を引き垂れ、重々しい重量を示しながら崩れた砲塔のように影像を蓄えてのめり出した。〉
その後、夜になって家から出てきた語り手が市場へと赴き、筵の上に積まれた銅貨の山を見て〈奇怪な塔のような気品〉を感じる。〈銅貨の力学的な体積は、それを中心に拡がっている街々の壮大な円錐の傾斜線を一心に支えている釘のように見え始めた〉という幻想を語り手と読者に錯視させる筆致も見事である。しかし、この釘を引き抜くような小さな革命を語り手は起こさない。なぜならば、語り手自身は物想うのみで実践を行なわないカメラであるため、思考を実現させることは到底叶わないのだ。
しかし、そんな風に語り手の視点で語られた小説の最後には彼自身から街自体が離れるように俯瞰的な映像が展開される。
〈街は彼を中心にして展開した。その街角には靴屋があった。靴屋の娘は靴の中で黙っていた。その横は幾何学的な時計屋だ。無数の稜の時計の中で、動いている時計は三時であった。彼は女学校の前で立ち停った。華やかな処女の波が校門から彼を眼がけて溢れ出した。彼は急流に洗われた杭のように突き立って眺めていた。処女の波は彼の胸の前で二つに割れると、揺らめく花園のように駘蕩として流れていった〉
語り手自体は最終的に〈杭〉という表現をされて、街に固定される。しかし、この杭は前文に現れた市街をバラバラにしてしまう〈釘〉でもあろう。この杭あるいは釘が抜かれることはなく、女学校の少女たちを川や血の流れを隠喩として流動させる。その流れにより、街の生活や呼吸といった動的な視点を街そのものが取り戻していく──つまりは小説内に流れていた一人の語り手による映像的視点から解き放たれて小説は閉じられている。
本作「街の底」に通底する語り手の主体のなさは、街自体の一装置であるためだろう。この装置を巧妙かつふんだんに用いた本作は映像的な美しさを兼ね備えている。そして、その映像のイメージを支えているのが横光利一の書く文章の詩的な美しさである。なにより語り手だけが持ちえた視点が最終的には街自体へと回帰して少女たちが流れていく様子の美しさ。──この情景はまるで映画のエンドロールのように読者へ得も言われぬ感慨を残してくれる。
(文章:遠藤ヒツジ)
前編:三の不在──宮澤賢治「風野又三郎」及び「風の又三郎」断想