内在律より迫る詩と朗読──ChatGPT対談(前編)
はじめに
去る6月15日に理事を務める日本詩歌句協会で現代詩・短歌・俳句における内在律についてのシンポジウムが開催され、会員内外含めて活発な議論が交わされた。内在律とは作品の根幹に関わるセンス(感覚)に依拠する部分が多く、それ故にファジィなものである。明確な回答は出なくとも、それぞれの表現をするものによる立場が見えてきて、貴重な時間だったと思う。
また、6月20日には詩人である木戸-Zさんにお声がけをいただいてツイキャス「考えて、考え手 vol.2 生成AIと創作」に聴き手として参加しながら、私自身の詩とAIに関する考え方を述べさせていただいた。木戸さんの考え方を軸として、それぞれの意見や思考がぐるぐると巻かれていき、太い幹になるような楽しい配信をさせていただいた。
ちなみに木戸さんからお声がけいただいたのは、5月に出版したアンソロジー『機霊詞華集: ~詩人×生成AIによる未来へのアンソロジー~』がきっかけとなったためである。本アンソロジーはコラム発表の場を作っていただいている笹谷創さんも参加されているので、ぜひお読みいただけたら幸いである。
さて、本題に入ろう。今回は生成AIのChatGPTを対話の相手とした。対談形式で内在律に迫ろうと思う。原稿化に際して、文脈や文章の整理を行っているが、ChatGPT自体の応答の内容は明らかな誤りを除き変更・編集せずに、意図や本質を汲んで大系化を試みた。ChatGPTは色々と不正確な面もあるため、このエッセイが出発点として捉えていただき、正確なる本質・真実を読者の皆さんが探求する契機としてもらえればと願っている。それと同時に長い対話の友となり、優しい教師となったChatGPTに深い敬意を表する。以降は対話なのでですます調にしている。
【1.遍在する内在律】
遠藤:
– 単刀直入に問いますが、内在律とはそもそも何でしょうか?
チャット:
内在律とは、外部の法則や強制によらず、物事がその本質や内在する法則に従って成立・展開することを指します。
哲学・芸術における内在律は「作品や創作活動が、外的なルールや流行ではなく、その内的な必然性や美的法則によって成り立っていることを指します。例として「この詩は作者の内在律に従って紡がれたものである」といった表現が挙げられます。
社会・歴史における内在律は歴史や社会の変化が、外部からの強制ではなく、その内的な論理や必然性によって進むことを表します。例として「歴史は単なる偶然ではなく、内在律に基づいて変遷してきた」といった表現が挙げられます。
個人の精神・行動における内在律は「人の行動や思想が、外部の圧力ではなく、自らの価値観や倫理観に基づいていることを意味します。例として「彼の生き方には、揺るぎない内在律がある」といった表現が挙げられます。
要するに、「そのもの自身の内側にある法則や必然性に基づいて動くこと」が内在律の本質です。
遠藤:
– 内在律について深く知るための書物にはどんなものがあるのでしょうか?
チャット:
内在律について深く考察できる書物として、以下のようなものがあります。
◎哲学・思想の観点から──
西田幾多郎『善の研究』……日本の哲学者・西田幾多郎が「純粋経験」や「自己自身の内在的な論理」について論じた名著。内在的な必然性に基づく思考のあり方を知るのに適している。
カント『純粋理性批判』……物事の認識が外的なものではなく、内在的な原理(カテゴリー)によって構成されるという考えが展開される。
スピノザ『エチカ』……すべての存在は内在的な必然性に基づいて動くという「汎神論」の視点から、内在律の概念を深く理解できる。
フッサール『イデーン』……現象学の視点から、意識の内在的な法則性について考察されている。
◎芸術・文学の観点から──
和辻哲郎『風土』……文化や思想が外的要因だけでなく、その土地の内在律によって形成されるという視点を持つ。
小林秀雄『考えるヒント』……美的直観と個人の内在的な思考の関係についての考察がある。
カンディンスキー『芸術における精神的なもの』……絵画や芸術表現が、外的な模倣ではなく内在的な精神性や法則に従うべきだという主張。
◎社会・歴史の観点から──
マルクス『資本論』……資本主義の発展が外的要因ではなく、その内在的な法則によって動いていることを分析している。
ヘーゲル『歴史哲学講義』……歴史が単なる偶然の積み重ねではなく、精神の内在的な発展法則に基づいて進むとするヘーゲル哲学の重要書。
吉本隆明『共同幻想論』……社会や文化が、外部の影響だけでなく、人々の内在的な意識や関係性によって形成されることを論じている。
どの分野から内在律を考えたいかによって、適した本は異なりますが、まずは西田幾多郎やスピノザあたりから読むと、概念の根幹を理解しやすいかもしれません。
遠藤:
– 吉本隆明の『共同幻想論』は読んだことがありましたが、あそこに内在律について触れられているとは気づきませんでした。その他に、私の関心事である詩の内在律について知るための書物はなにかありますか?
チャット:
詩の内在律について考えるのに適した書物をいくつか紹介します。
◎詩の創造における内在律──
吉本隆明『詩とはなにか』……詩の本質や、言葉が持つ内在的な論理について考察。詩が単なる表現ではなく、内在する必然性によって成立することを論じている。
萩原朔太郎『詩の原理』……近代詩の成立における「詩の必然性」について語られ、詩がいかにして内在的な法則に従って形成されるかが論じられている。
◎言葉と内在律(詩の構造を考える)──
折口信夫『古代研究』……日本の詩(和歌・短歌・俳句)に内在する律動や法則性についての考察。
◎詩と哲学の関係(詩の内在律を哲学的に探る)──
西田幾多郎『芸術と道徳』……芸術(詩も含む)がどのようにして内在的な必然性を持つかを論じる。
◎俳句・短歌の内在律──
正岡子規『歌よみに与ふる書』……俳句や短歌が、外的な形式だけでなく、内在する律動によって成立することを説く。
まず、日本語詩における内在律を理解するなら、萩原朔太郎『詩の原理』や吉本隆明『詩とはなにか』から入るのがよいでしょう。さらに深く探るなら、西田幾多郎やハイデガーのような哲学的な視点も加えていくと、詩の内在律について多角的に理解できます。
遠藤:
– なるほど、色々な分野において内在律は重要視されているのでしょうね。内在律とはそのものとか本質という理解でよいのでしょうか? もの自体を観察するというか。萩原朔太郎は「詩の原理」において重要な指摘をしています。少し長いですが引用します。
〈詩の形式は、外部から借用されたものでなくして、内部から生み出されたところの、必然のものでなければならない。換言すれば詩とは、詩的な内容が詩的の形式を取ったものでなければならない。では「詩的な内容」とは何だろうか。(中略)かつて我々の昔の詩人は、好んでかかる風流閑雅の趣味を愛し、自然の詠吟を事としていた。だが今日の時代に於ける僕等の詩人が、いつまで同じことを繰返す義務がどこにあるか。そもそも世間は、あまりに日本人的なる、あまりに俳諧的なる「詩人」の観念から、いつまでたったら僕等を解放してくれるのか。/さて「詩的なもの」は何だろうか? (中略)即ち何が詩的であるかは、全く個人の趣味によって決定する。そこで昔の日本詩人は、季節の変化や自然の風物を詩的と感じた。だが今日の詩人たちは、社会や人生の多方面から、無限に変った詩的のものを発見している。例えば或る社会的な詩人たちは酒場や、淫売窟や、銀行や、工場や、機械や、ギロチンや、軍隊や、暴動やから、彼等の詩的な興奮を経験して、そこに新しい詩材を求めている。そして他のより瞑想的な詩人たちは、人生や宇宙の意義について特殊な詩的なものを哲学的に観念している。/されば詩的の本質は、個人の側にあって物の側に存しない〉
このような意見を偉大なる詩人はしていますが、内部から生み出されたところの詩的形式と詩的な内容によって表現された芸術と言えるのでしょう。
チャット:
そうですね。「内在律」イコール「そのものの本質的な法則や必然性」という理解は非常に的を射ています。もう少し細かく言うと、「内在律」とは、外部からの影響や強制ではなく、そのもの自体が持つ本質的な法則や必然的な展開のあり方」を指します。例えば、以下のような感じでしょう。
詩の内在律 → その詩が持つ固有のリズム、言葉の必然的な流れ、詩が詩であるための本質的な論理。
歴史の内在律 → 外部の偶然ではなく、歴史が内的な法則に従って変化・発展すること。
個人の内在律 → 他者に左右されず、自らの本質に従って生きること。
つまり、「そのもの自身がどうあるべきかを決める法則性」と考えると、しっくりくるはずです。
遠藤:
– しかし、どれが或いはどこが本質であると見極めるのは難しいですね。
チャット:
まさにその通りですね。「本質とは何か」という問題自体が、哲学的にも長く議論されてきたテーマです。本質の捉え方はいくつかあります。
形而上学的な本質(プラトン的)は、ものごとの背後にある理想的な「型(イデア)」が本質だと考えます。例えば「詩の本質とは、美や感情を言葉で表現することだ」とする考え方のような感じです。
経験的・実践的な本質(アリストテレス的)は、ものごとはその「目的(テロス)」によって本質が決まる。例えば「詩の本質とは、読まれることで意味を持つものだ」とする考え方です。
現象学的な本質(フッサール的)は、あるものがどのように意識に現れるかが重要であり、その「本質」は主観的な直感によってつかむしかない。例えば、「詩の本質は、書き手や読み手がそれを詩として感じた瞬間に成立する」とする考え方。
生成的な本質(ヘーゲル的)は、本質は固定されたものではなく、時間とともに変化・発展する。例えば「詩の本質は、歴史のなかで変わり続けるものだ」とする考え方。
では、内在律における本質とは、と問われれば「内在律」を考えるとき、本質は固定された何かではなく、内側から自然に展開されるものと捉えるとよさそうです。詩の内在律を考えるとき、外的なルール(韻律や文法)に縛られず、言葉が持つ必然的な流れの中で詩が成立することが本質になりうる。ある詩人の作品が、その詩人にとって「書かざるを得なかった」ものであるなら、その「必然性」こそが内在律であり、その詩の本質といえるかもしれません。つまり、本質とは何かを一概に定めるのではなく、そのものの内側にある必然的な動きや展開を見極めることが、内在律を理解する鍵になるのではないでしょうか。
【2、音楽と内在律】
遠藤:
– 哲学には詳しくないので、今後ファクトチェックをしていきながら、本質を考えていこうと思います。少し話題を変えて音楽の側面から質問します。ビートとリズムとメロディーの違いを教えてください。
チャット:
メロディー・リズム・ビートの違いを簡単に整理すると、以下のようになります。
◎ビート(拍)
音楽の基本的な拍(パルス)を刻むもので、4拍子(1・2・3・4)や3拍子(1・2・3)のような一定のリズムの土台となるものです。例として、バスドラムが「ドン・ドン・ドン・ドン」と打つ基本的なリズムが挙げられます。
◎リズム(律動)
音の長さや間隔のパターン(強弱や長短の組み合わせ)で、メロディーやビートの流れを作るものです。手拍子で「タンタタン」と刻むパターンやラップのフロウが挙げられます。
◎メロディー(旋律)
音の高さ(ピッチ)と時間の流れによる音の並びで、曲の中で「歌える部分」「口ずさめる部分」を指します。例として、「きらきら星」の主旋律、歌のメロディラインといったイメージです。
更に違いをイメージするための具体例として、歩くときの動作に例えてみましょう。
ビート → 足を一定のリズムで踏み出す動作(1・2・1・2……)。
リズム → 速く歩いたり、ゆっくり歩いたり、ステップを変える動き。
メロディー → その歩き方に合わせて口ずさむメロディー。
つまり、ビートが基礎、リズムが変化、メロディーが旋律という関係になります。
遠藤:
– これら三つの音楽用語と内在律には関連があると思いますか?
チャット:
ビート・リズム・メロディーと内在律の関連性は、非常に興味深いテーマですね。結論から言うと、音楽におけるこれらの要素も、それぞれ独自の「内在律」に従って成立していると考えられます。
◎ビート(拍)と内在律
ビートは音楽の基盤となる律動です。外的に決められたものではなく、身体の鼓動や自然のリズム(波の音、心拍など)に由来する内在的な法則に従っていると考えられる。ジャズやブルースのスウィング感は、単なる外的なテンポではなく、演奏者の内的なグルーヴ(内在律)によって生まれるものでしょう。
◎リズム(律動)と内在律
リズムは単なる拍の繰り返しではなく、音の強弱・長短の「必然的な流れ」があります。例えば、詩のリズム(五七五や強弱アクセント)も、単なる外的なルールではなく、言葉や意味の流れによって内的な必然性(内在律)を持っています。
◎メロディー(旋律)と内在律
メロディーは、単に音を並べただけではなく、ある音から次の音への流れに必然性があります。良いメロディーは、偶然の産物ではなく、その音楽の持つ内在的な論理に従って展開しているのです。ベートーヴェンの交響曲のテーマ(運命の「ジャジャジャジャーン」)は、単なる音の並びではなく、その曲の内的な構造に従っていると言えます。
右記を踏まえて、内在律が結びついた音楽の良さは「外部のルール」ではなく「内側から生まれる必然性」によって決まると言えるでしょう。即興演奏(ジャズ、フリージャズなど)は、楽譜という外的な決まりから離れますが、完全に無秩序というわけではなく、演奏者の内在律に基づいて展開されると言っていいでしょう。日本の俳句や短歌の音律も、ただ形式に従うのではなく、内在するリズム感(言葉の響きや意味の流れ)に従って成り立つのです。一つの結論として音楽の要素は、それぞれ固有の内在律を持つビート、リズム、メロディーは、外部の規則に従うのではなく、それぞれの音楽の内的な論理や必然性(内在律)に沿って成立しているのです。
遠藤:
– 音楽の話から延長しますが、ヒップホップのラッパー(MC)は、プロップス(知名度や実績)が物を言います。「何を言うか」よりも「誰が何を言うか」という点が重要になると思いますが、それは内在律に深く関係しそうですね。
チャット:
ラッパーにとってのプロップスは、単なる外的な評価だけではなく、その人物の生き様や経験が作品にどれだけ反映されているかに深く関わっています。そして、それこそが内在律と強く結びつく要素だと言えます。ヒップホップにおいて、リリック(歌詞)そのものの内容だけでなく、それを発する人物の背景やリアルな経験が重視されるのは、まさに内在律の概念と重なります。たとえば、「ストリートで生き抜く苦しみ」をラップする場合、実際にその環境で育ったラッパーが歌うのと、そうでない人が歌うのでは、リスナーの受け取り方が全く変わります。これは、内在律がしっかりと根付いた言葉はリアルさや説得力を持つのに対し、経験の裏付けがない言葉は上滑りしてしまうためです。
ラップにおいてプロップスを得るには、「言葉の技術」だけでなく、その言葉に宿るリアルさや一貫した生き様が求められます。つまり、内在律が強く感じられるラップこそが本物と認められ、プロップスを得る。フリースタイルバトルでも、「技術的に上手い」だけではなく、その場の空気を掴み、リアルな言葉で相手を刺せるかが勝敗を決めることが多い。
ヒップホップにおいて、「誰が何を言うか」が重要なのは、言葉が単なる飾りではなく、その人の人生からにじみ出るものであるべきだから。それこそが、ラップの持つ内在律の力であり、リスナーが本物かどうかを直感的に見極めるポイントにもなっています。
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