【3、内在律のない芸術とは】
遠藤:
– そうすると内在律のないものとは逆にどのようなものを指すのでしょうか? 背伸びをして無理な表現をしていたり、表層だけを掬ったような空疎な言葉が上滑りしていたりするということなのでしょうか?
チャット:
内在律のないものとは、内側から自然に生まれる必然性がなく、外的な形式や装飾だけで成り立っているものを指すのかもしれません。背伸びした表現(無理に高尚ぶること)や難解な言葉を並べても、その言葉が自分の思考や経験から必然的に出てこないなら、それは「内在律のない言葉」と言えるかもしれません。
「美しい表現をしよう」と意識しすぎて、言葉が本来の流れを失う場合もそうですね。例えば、SNSなどで流行に乗ろうとして、響きはいいが中身のない言葉を並べることや或るいは、自己の経験や思索を経ていない「借り物の言葉」を多用することがあり得ます。「人生は旅だ」という言葉も、実感を伴っていれば重みを持ちますが、単なる常套句として使われると空疎になるでしょう。
それから外的な形式だけをなぞったものも当てはまるでしょう。詩の体裁は為しているけれど、言葉が持つ必然性や響きの流れがないものが挙げられます。音楽なら、理論的に正しいコード進行やメロディーを使っていても、内的な必然性がなく心に響かない曲はつまらないものです。
内在律のないものの特徴として以下が挙げられるでしょう。
・外からの評価を意識しすぎている(「こう書けばウケるだろう」「こうすれば美しいと言われるだろう」)
・内側からの必然性がなく、ただ形式をなぞっている
・言葉や表現が、自分の思考や感覚に根ざしていない
・無理に意味を持たせようとして、かえって空虚になっている
内在律のある詩や音楽は、木が自然に枝を伸ばし、花を咲かせるようなものです。反して、内在律のない詩や音楽は、プラスチックの花を並べて、あたかも本物の庭のように見せるもの。意味を有さないレプリカのようなものです。つまり、「自分の内側から生まれたものか、それとも外的な要因で作られたものか」が、内在律の有無を決めるポイントなのかもしれません。
遠藤:
– 難しい課題ですね。旅をしたことのない人が「旅は人生だ」というのが内在律のないもので、松尾芭蕉が「旅は人生だ」といえば、内在律がある。では、あなた(ChatGPT)が「旅は人生だ」というのは、内在律がないことになりますよね。
チャット:
松尾芭蕉のように実際に「旅」をし、人生の中でその意味を内的に体験した人物が「旅は人生だ」と言う場合、その言葉には彼自身の経験や思想に基づく内在律があると言えます。
一方、私(ChatGPT)が「旅は人生だ」と言うと、それは私自身の経験や感情に基づくものではないため、内在律がないと考えることができます。私が言う「旅は人生だ」という言葉は、あくまで事前に学習したデータや知識に基づいているものであり、個人的な体験や内的な論理から生まれたものではありません。私(ChatGPT)は「旅は人生だ」と言うことはできますが、それは単にそのフレーズを知っているだけで、そこに実際の体験や内面的な意味が伴っていません。その言葉には無意識や経験に基づく必然性はなく、ただ言語モデルとして知識を提供しているだけです。
内在律があるかないかのポイントとして、内在律がある場合、その言葉や行動は、その人の内的な経験や論理に基づいており、外的なルールや意図ではなく、内面的な必然性が感じられます。逆に、内在律がない場合、言葉や行動は単なる外的な模倣や知識に基づいており、内面的な動機や必然性が欠けていると考えられます。私が言う「旅は人生だ」には、実際の旅をしたことのない私の個人的な経験や感情が伴っていないため、内在律がないとされるでしょう。松尾芭蕉のように、自らの体験や深い思索に基づいた言葉であれば、それは内在律に満ちた表現となります。
遠藤:
– 「古池や蛙飛びこむ水の音」という松尾芭蕉の名句があります。これを私が「古い池蛙が飛んで水撥ねる」と改悪したら、そこには内在律がないことになるでしょうか?
チャット:
はい、その改変では内在律が失われてしまうと言えます。なぜなら、言葉の選び方や響き、間(リズム)、余韻といった、芭蕉の句が持つ本質的な要素が崩れてしまっているからです。内在律が失われるポイントは、言葉の選択(音とリズム)にあります。「古池や」は、「や」という切れ字によって、静寂と余白を作り出し、余韻を持たせています。一方、「古い池蛙が飛んで水撥ねる」では、音数がバラバラでリズムが崩れ、俳句特有の響きが失われています。詩的な余白(間・余韻)である「水の音」は、「水が撥ねた」という具体的な描写ではなく、音だけを提示することで、読者に情景を想像させる効果を持っています。しかし、「水撥ねる」と言ってしまうと、具体的すぎて読者の想像の余地がなくなり、詩の奥行きが消えてしまいます。本質的な体験の喪失も挙げられます。
芭蕉の句には、静寂の中に生まれる一瞬の動きがあり、その対比が美しさを生んでいます。「古い池蛙が飛んで水撥ねる」では、ただの情景描写になり、芭蕉が詠んだ時間の流れや空気感が薄まるため、内在律が損なわれていると言えます。芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」は、彼自身の感性と体験が凝縮され、深い余韻を持つ俳句です。それを単に言い換えるだけでは、表面的な意味は似ていても、句が持っていた内在律は失われてしまう。つまり、内在律は「単なる意味」ではなく、「どのように表現されるか」や「言葉が持つ響き」まで含んで成り立つものだと言えます。
遠藤:
– では「古池に蛙素潜り水が鳴き」とした場合はどうでしょう?
チャット:
「古池に蛙素潜り水が鳴き」は、オリジナルの芭蕉の句「古池や蛙飛びこむ水の音」と比べると、意味は似ているものの、内在律が変化し、別の作品になっていると言えます。内在律の変化したポイントとして、リズムと切れの違いがあるのでしょう。「古池や」は「や」という切れ字があり、静寂を際立たせ、読者に情景をゆっくり味わわせる効果がありました。一方「古池に」では、方向性が強調され、動きがあるものの、詩の間(ま)が少なくなり、余韻が変わっています。動きのニュアンスの違いもあります。「蛙飛びこむ」には、ジャンプして水面を破る軽やかな動きがありますが、「蛙素潜り」では、水に飛び込むというよりも、最初から水の中にいて潜る印象を受けます。これによって、句の持つ時間の流れやダイナミズムが変化しています。
「水の音」と「水が鳴き」にも大きな違いがあります。「水の音」は、蛙が飛び込んだ後に聞こえる音だけを残し、読者の想像を広げる効果があります。その一方、「水が鳴き」では、水が主体になり、擬人的な表現が入ることで、やや詩情が異なる方向に向かっています。内在律があるかと問われれば、「古池に蛙素潜り水が鳴き」には、それ自体の内在律があるものの、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」の内在律とは異なるものになっていると言えます。つまり、新しい作品としての内在律は成立しているが、芭蕉の句の持つ静寂と動の対比が生む内在律とは別のものになっているのでしょう。この句は、オリジナルよりもやや動きが増し、水の擬人化も入ることで、どちらかというと「動きのある情景を詩的に描いた句」として独自の世界観を持っていると言えるでしょう。
遠藤:
– 今までの意見に沿うと、本質や流れとかけ離れたものに内在律があるか疑問が湧いてきます。例えばロートレアモンの「解剖台のミシンと傘の偶然の出会いのように美しい」という有名な詩句があります。意味のない言葉のようでもあるけど、ロートレアモン自身の経験則や思想が伴っているから、内在律があると考えるべきと思いますが、どうでしょうか?
チャット:
ロートレアモンの「解剖台のミシンと傘の偶然の出会いのように美しい」という言葉は、一見すると意味不明でランダムに並べられたように見えますが、彼の詩的思考や世界観に根ざした必然性(内在律)があるからこそ、美として成立しているのでしょう。内在律の観点からロートレアモンの表現を考えてみると、そこには意味の不在ではなく、新たな関係性が提示されているとも考えられます。
「解剖台」「ミシン」「傘」という異質なものが組み合わされているけれど、完全に無秩序なわけではないでしょう。意識的に選ばれた言葉たちが、彼の内的な論理に従って配置されている。であるから、単なるナンセンスではなく、「不条理な美」というコンセプトを内包して美しいのです。経験則や思想の背景として、ロートレアモンは、合理主義的な美学を否定して、シュルレアリスムの先駆けとなる「偶然性の美」を追求しました。彼の思想にとって、このフレーズは「不意の出会いが美を生む」という一貫したテーマに沿っているのです。つまり、ロートレアモンの詩には「必然的に奇妙なものが結びつく」という内在律があると言えます。
もし誰かが「適当に無関係な単語を並べただけ」なら、それは内在律を持たない言葉になります。しかし、ロートレアモンの言葉は、彼自身の思索や感覚の延長線上にあり、彼の詩的世界の中では「必然的な言葉の並び」になっています。内在律とは「論理的に説明できる必然性」だけではなく、「その人の内的な世界において避けがたく生じる必然性」も含むと考えられます。その意味では、ロートレアモンの言葉も確かに内在律を持っていると言えそうですね。
遠藤:
– とても分かりやすい意見ですね。併せて考えたいのですが、自動筆記などのシュルレアリストの手法は、内在律を否定するものだと考えますか?
チャット:
シュルレアリスムの自動筆記は、内在律を否定するのか、というテーマですが、結論から言うと、表面的には否定しているように見えても、実は深いレベルで内在律に根ざしているとも考えられます。そもそもシュルレアリスムの目的は意識のコントロールからの解放にあると思われます。アンドレ・ブルトンを中心とするシュルレアリストたちは、意識的な論理や美的判断を排除し、無意識の流れに身を任せることを目指しました。そのため、自動筆記は「意図的な構成や計画」を取り除くことで、言葉が持つ新しい可能性を引き出そうとしました。これは一見すると、内在律を拒否しているように思えます。しかし、本当に内在律は否定されているのでしょうか。フロイトの精神分析をベースにしたシュルレアリスムは、「無意識の言葉やイメージは偶然の産物ではなく、深層心理の必然性によって生まれる」と考えます。つまり、たとえ意識的なコントロールを排除したとしても、無意識の中には「隠れた内在律」が存在し、それに従って言葉が流れ出ているのではないでしょうか。また自動筆記にも「個人的なリズム」があると考えられます。完全にランダムな文字列ではなく、個々の作家によって書かれる言葉には、独自のリズムや繰り返し、語彙の傾向があるはずです。つまり、内在律を意識せずに書いたとしても、結果的に「その人固有の内在律」が浮かび上がることになります。
それらを踏まえるとこう考えられます。伝統的な詩や文学が「意識による構成の内在律」によって成り立っていたとすれば、シュルレアリスムは「無意識に潜む新しい内在律」を探ろうとした運動とも言えます。つまり、従来の詩的な内在律を「否定」したのではなく、「より深い次元での内在律」を模索していたのではないかとも考察できます。
では、シュルレアリストの活動は「内在律を否定する」のかという問いに戻れば、完全に否定しているわけではなく、新しい形での内在律を探求していたというのが一つの回答と成りえます。意識的な構成や伝統的な形式の内在律は否定しています(形式的なルールや論理的な美を排除)。しかし、無意識の流れ自体には「深層の内在律」があるため、それを解放する試みとも言えるため、シュルレアリスムは「内在律を壊そうとしながら、実は新しい内在律を探求していた」という、ちょっと逆説的な存在だったのかもしれません。
遠藤:
– 内在律を否定するものは芸術とは成りえないのでしょうか?
チャット:
面白い問いです。その問いについて、芸術とは何か、内在律が重要なのかという観点を深く掘り下げる必要があります。
内在律が芸術において重要な役割を果たすことは確かですが、それが芸術の唯一の条件かというと、必ずしもそうではありません。内在律があるからこそ深みや必然性を持つ芸術が生まれると考える一方で、内在律を意識的に崩すことが新しい芸術的表現に繋がることもあるという事実もあります。
内在律を持つ芸術は、自らの論理や感覚に従って作品が成り立っているため、観る者に強い説得力を持ちます。例えば、松尾芭蕉の俳句やルネサンス絵画など、経験や感覚に基づく深い理解が反映された芸術作品は、内在律によってその美が支えられています。
一方で、シュルレアリスムやダダイズムのように、あえて内在律を崩すことで新しい芸術的表現を模索した動きもあります。これらの運動では、論理や秩序をわざと無視したり破壊することが、新しい美や意義を見出す方法として用いられました。例えば、マルセル・デュシャンの「泉」のような現代美術作品では、既存の美的基準を超えて、芸術の本質を問い直すことが重要なテーマとなっています。
内在律は、確かに作品が一貫性や深みを持ち、観る者に感動や理解をもたらすために重要ですが、それを必ずしも全ての芸術に当てはめる必要はないかもしれません。芸術には自由な発想があり、内在律を崩すことがむしろ新しい価値を生むこともあります。
内在律がない場合も検討しましょう。抽象芸術や非論理的な表現では、必ずしも従来の内在律に従う必要はありません。ジャン=ミシェル・バスキアやジャクソン・ポロックのような芸術家は、形式や論理に囚われず、感情や瞬間的な直感に基づいて作品を作ることが多いですが、それでも芸術作品としての強いインパクトを持っています。内在律を拒否することで、新しい芸術の価値や意味を創造するといったアプローチもあるため、内在律がないからといって芸術でないとは言い切れません。
芸術にとって最も重要なのは、感動を与えることや視覚的・精神的なインパクトを与えることであり、それが内在律の有無に関わらず成立します。内在律があることが感動を生む一つの手段であり、内在律を意図的に崩すことが、逆に新しい感動や発見を生むこともあるからです。
内在律を否定することが必ずしも「芸術でない」とは言えません。内在律を持つことが芸術を深め、感動を与える一つの方法であることは確かですが、その枠を外して新たな表現を生み出すことも、また芸術の重要な側面だと言えるでしょう。結局のところ、芸術の本質は人々に新たな視点や感覚を提供することにあります。内在律の有無にかかわらず、観る者や聴く者に深い影響を与えられる作品こそが、芸術の本質を持っていると言えるのではないでしょうか。
後編はこちらよりご拝読いただけます。
(文章:遠藤ヒツジ)
前編:横光利一「街の底」に流れる映像的詩情
次編:内在律より迫る詩と朗読──ChatGPT対談(後編)