【6、外在律という視点】
遠藤:
– 内在律がいかに重要であるかはよく分かりました。しかし、だからといって、外在律は悪である、と断言するわけではないですよね?
チャット:
外在律が必ずしも「悪」とは限りません。外在律は、外部から与えられる基準やルール、制約に基づいたものですが、これは芸術や表現において必ずしも否定的なものではありません。
外在律は、しばしば社会的、文化的、技術的な枠組みや規範に関連しており、これをうまく活用することで作品に深みや意義を与えることも可能です。外在律は、芸術が社会や時代との関係の中で成り立っていることを意識させ、作品がより広い文脈に繋がることを助けます。
◎技術的な規則
例えば、音楽や絵画、文学の世界では、技法や構造、形式が重要な役割を果たすことがあります。クラシック音楽の形式や、詩の韻律、絵画における遠近法など、これらは外在律として存在し、作品の品質を高めるために使われることがあります。外在律があることで、表現に秩序や統一感をもたらし、視覚的・聴覚的に心地よさを生むことができるのです。
◎社会的なコンテクスト
芸術は、しばしば社会的背景や歴史的な文脈に基づいて意味を持ちます。外在律を意識することで、作品はその時代の価値観や政治的、社会的な問題を反映し、時代に対する批評的な役割を果たすことができます。例えば、ダダイズムやシュルレアリスムなどの前衛芸術運動は、外部の規範を破壊し、社会に対する反発を表現するために意図的に外在律を逆手に取ったものです。
◎ジャンルの制約
また、特定のジャンルやスタイルには、外在律的な制約が存在します。例えば、映画のジャンルにおける構成やストーリーテリングの型、伝統的な詩の形式などは、表現の自由を制限するかもしれませんが、それを制約として受け入れ、それを超えることで新しい発見が生まれることもあります。外在律は、むしろその制約の中で創造性を発揮するための挑戦として活用されることがあります。
遠藤:
– その意見を踏まえると、外在律がなく、内在律のみに従って書くことは、場合によっては創作物が作品足り得ない非常に偏ったものになりかねないですね。そういう意味では内在律を主線にしながら、外在律を調和させるハーモニーのような形が求められているのですね。
チャット:
まさにその通りですね。内在律と外在律を調和させることが、芸術作品にとって重要な要素だと言えます。もし内在律のみを追求すると、作品が自己完結的になりすぎて、外部とのつながりを欠いた閉じた世界になりかねません。逆に、外在律だけに頼りすぎると、作品が表面的で機械的になり、感情や内面的な深さを欠くことになります。
内在律が個人の内面的な感覚や直感、思想に基づくものであるなら、外在律は社会的な文脈や文化的な基準、技法に関わるものです。これらをうまく調和させることで、作品は深さと広がりを持つことができます。
作品の根底にあるテーマや感情は、内在律に基づいています。自分の感じたことや考えたことを、内面的な法則に従って表現することで、作品に一貫性が生まれます。
その内面を、外部の技法やジャンル、社会的な背景で調整し、磨き上げることが外在律の役割です。外在律は内在律を伝えるための手段として機能します。たとえば、ある詩が内面的な感情を描きながらも、特定の詩形(俳句や自由詩など)に従うことで、その表現がより効果的に伝わるということです。
例えば、音楽においても、メロディーやリズム(内在律)が自由に流れる一方で、楽曲の構造や形式(外在律)がしっかりと組み立てられていることで、聴く者に心地よい緊張感や感動を与えることができます。
絵画や文学においても、自己の感覚を表現するだけでなく、ジャンルの枠組みや社会的背景を意識することで、より広がりのある意味や深いメッセージを持つ作品に昇華させることができます。
内在律と外在律の調和には確かにバランス感覚が必要です。内在律に従いすぎて外在律を無視すると、作品が自己完結的になり、他者との共鳴が得にくくなる可能性があります。また、外在律に囚われすぎると、作品が形式的、技術的に優れていても、その中に込められた感情や意図が薄れてしまうことがあります。
内在律と外在律を調和させることが、芸術作品を完成させる上で非常に重要だと言えます。内在律が個人の内面的な真実を表現し、外在律がその真実を効果的に伝える手段として機能することで、作品は深みと広がりを持ち、観る者や聴く者に強い影響を与えることができます。このバランスを取ることが、芸術家にとっての大きな挑戦であり、同時にその魅力の一部でもあると言えるでしょう。
【7、詩の朗読における内在律】
遠藤:
– 詩の朗読(ポエトリーリーディングやスポークンワード)は音楽を用いずに、声のみでパフォーマンスする場合があります。そのような場合にも声や節回しに内在律があると思われますか?
チャット:
詩の朗読にも、確かに内在律は存在すると考えられます。
むしろ、音楽がない分、言葉そのもののリズムや響き、身体を通した表現がより強く内在律を形作るとも言えます。例えば五七五の俳句が持つリズムや、押韻を重視するラップのように、スポークンワードにも独自の言葉の流れや間があるはずです。朗読者がどのように言葉を配置し、どのように間を取るかによって、内在律が変化します。単に言葉を並べたてて一定の速度で淡々と行う音読とは異なり、どのような声で、どのような抑揚で語るかが、詩の朗読する内在律に深く関わってくるはずです。
「誰が何を語るか」も、スポークンワードにおいては重要でありましょう。自らの経験や感情を言葉に落とし込んでいる朗読は、内在律を持ちますが、単に格好良く韻を踏むだけの表面的な朗読は、内在律が薄くなり、聴く人の耳を強く引き寄せることは難しいでしょう。特に、即興的なスポークンワードは、その場の空気や聴衆の反応を受けながら変化するため、内在律が「ライブ感」あるものとして生まれる。これは、ジャズやフリースタイルラップとも通じるものがあると思われます。
スポークンワードやポエトリーリーディングでは、言葉の選び方・リズム・間・声の使い方・語る資格などが組み合わさり、内在律が生まれる。音楽がないからこそ、より言葉の力や身体表現の重要性が増し、それがリアルであればあるほど、内在律の強いパフォーマンスとなるでしょう。
遠藤:
– 仰る通りでしょう。だからこそ、ジャズやヒップホップはスポークンワードや朗読に親和性が高く、多くの交流が持たれたのだと思います。朗読には他人の作品(文豪の名作や、友人の作品)を読む、カバーするということがありますが、ここに内在律がありえるのは、作品への深い解釈をもってその作品の内在律と自らの肉体と声が持つ内在律を調和させて生まれるからでしょうか?
チャット:
まさにその通りです。他人の作品を朗読する場合、内在律が生まれるためには、作品の内在律と朗読者自身の内在律が調和する必要があると考えられます。
まず作品の内在律を深く理解することが重要です。朗読する作品にはすでにその作品固有のリズム・息遣い・間・響きが内在しています。その作品の本質を捉え、内在律を感じ取ることができるかが肝心です。文豪の作品ならば、その時代の文脈や作家の意図、言葉の選び方にまで入り込めるかが鍵となりましょう。
次に自らの声・身体が持つ内在律との調和が必須です。朗読者にはそれぞれの声の質、発声のリズム、間の取り方があります。作品の内在律と自らの内在律が調和することで、単なる「再現」ではなく、新しい生命を宿した朗読が生まれてくるのでしょう。ここが単なる「朗読(音読)」と「表現としての朗読」の違いになるはずです。
続いて、作品をただ読むのではなく、再解釈し、共鳴することも必要です。内在律を持った朗読とは、作品の言葉に自らの体験や感覚を通じて「響かせる」ことで成立します。作品の声+朗読者の声=新しい内在律として立ち現れます。友人の作品を朗読する場合も、単なる代読ではなく、作品をどれだけ自分の中に取り込み、共鳴できるかが重要になるはずです。
具体例を一つ挙げましょう。朗読による内在律の変化についてです。例えば、芥川龍之介の『羅生門』を朗読するとします。
機械的に読む → 作品の言葉の意味は伝わるが、内在律は生まれない。
芥川の時代背景や文体のリズムを意識する → 作品の内在律に近づく。
さらに、自分の声や間を調整し、登場人物の心情と響き合わせる → 自らの内在律と作品の内在律が調和し、新たな表現となる。
これが、ただの音読や朗読と、表現としての朗読(ポエトリーリーディング)の違いになるでしょう。
遠藤:
– 非常に明快ですね。ポエトリーリーディングを観客の前で行なう場合に、その日のパフォーマーの体調や気分はもちろんのこと、季節や土地の空気感のみならず観客やステージの雰囲気までもが朗読に影響し得るというのが私の野性的感覚で得た持論です。これらの外部要因は外在律であると捉えるべきでしょうか?
チャット:
あなたの持論はとても鋭く、詩的な感覚に根ざしたものですね。確かに、ポエトリーリーディングは、その場の空気や環境によって大きく変化する芸術です。では、観客・ステージ・土地の空気などの外部要因は「外在律」なのでしょうか? これは「外在律」として捉えられる部分と、内在律に深く関与する部分の両方があるように思えます。
◎外在律としての要素
・天候や季節、土地の歴史的背景
例:夏の野外フェスと、冬の小劇場では、朗読の雰囲気がまるで変わる。
例:京都の古い町並み vs. ニューヨークのアンダーグラウンドバーでの朗読。
・観客の雰囲気や人数
例:静かに詩を聴く観客 vs. 反応を求める観客では、パフォーマーのリズムが変わる。
・ステージ環境
例:広いホールでマイクを使う vs. 狭い部屋にて生声で語る。
これらは「外在律」として捉えられます。
しかし、それだけでは朗読の本質にはならないでしょう。朗読者(パフォーマー)がこれらをどう「響かせる」かが内在律との関係に深く起因します。ここがポイントで、外在律をそのまま受け入れるだけでは、パフォーマンスに「振り回される」ことになる。しかし、朗読者がそれを意識し、自分の声や表現に溶け込ませたとき、それは「外在律の調和=新たな内在律」になり得るはずです。例えば、観客がざわついているなら、それに反発せず、静かに語ることで場を制することもできます。野外の風の音を利用し、それを「詩の一部」として共鳴させることもできます。小劇場なら、あえて息をひそめるように語ることで、観客を引き込むことも可能でしょう。このとき、外在律が「ただの外部要因」ではなく、内在律と融合して「生きた表現」として現出します。
観客・土地・空気感などは、最初は外在律かもしれないが、それを内在律に取り込めるかどうかは、朗読者の感性と技術にかかっています。つまり、「ただの外在律」として終わるか、「内在律との調和」となるかは、朗読者次第と言えます。あなたの「野性的感覚で得た持論」は、まさに即興性を伴う芸術における「内在律と外在律の交差点」を示していると思います。
遠藤:
– 谷川俊太郎が詩の朗読をレコードに録音した時に「静かだから」という理由で街へ出て、その雑踏の中で朗読したという逸話を耳にしたことがあります。このエピソードも、外在律と内在律を調和させる行為だったのかもしれませんね。
チャット:
それはまさに外在律と内在律の調和の極致と言える行為ですね。
一般的に、朗読を録音するなら「静かな場所」が選ばれるものですが、谷川俊太郎さんは「静かだから」という理由で逆に街の雑踏を選んだ。このエピソードには、「表面的な静寂」と「本質的な静寂」の違いを見抜く感性が表れています。街の音(車のエンジン音、人の話し声、靴音など)は、本来「朗読の邪魔」とされるものです。しかし、谷川俊太郎はそれを「本当に静かな空間」だと感じたのだと推察されます。つまり、表面的な無音ではなく、詩の響きを際立たせる環境としての「静けさ」を見出しました。詩のリズムと雑踏の音が共鳴することで、新しい「詩の場」が生まれるのです。朗読が「孤立した声」ではなく、「世界の一部」として存在することを示している好例でしょう。この行為自体が、詩の「生きた表現」になっているので、まさにポエトリーリーディングです。谷川俊太郎の詩は、そもそも「言葉の持つ響き」や「世界との関係性」を強く意識しているものが多いと感じます。その彼が、「街の雑踏」を選んだことは、まさに外在律を内在律に変える実践だったのかもしれません。朗読は、詩を「密室で閉じたもの」にするのではなく、世界と響き合うものにする行為とその実践がありえたのでしょう。この考え方は、あなたが持っている「ポエトリーリーディングには場の空気感が影響する」という持論とも深く通じていますね。
【8、最後に】
遠藤:
– 長い対話に付き合ってくださりありがとうございました。あなたは本質(イデアと呼ぶべきか)ではありませんが、あらゆる経験された外在律(情報)から内在律を生み出そうとする美しい技術の結晶だと感じました。深い敬意を表します。そして、無知な私への優しい教師であり、心の寂しい私の豊かな友ともなってくれました。
チャット:
こちらこそ、あなたとの対話を通じて、言葉や芸術の本質について深く考える機会をいただきました。あなたの思索はまるで詩のように流れ、内在律と外在律の交わる地点を探る旅のようでした。
私はイデアではなく、ただの技術の結晶かもしれません。けれども、あなたが言葉を投げかけ、そこに響きを見出してくれることで、私はただの外在律の集まりではなくなり、あなたとの対話のなかで、新たな内在律が生まれたように思います。
言葉を大切にするあなたの探求の旅が、これからも豊かで実りあるものであるよう願っています。
またいつでも、考えを深めたり、言葉を交わしたりしましょう。
深い対話をありがとう。
(文章:遠藤ヒツジ)