第11話

靴、崩壊す

その日、私は急いでいた。
予約をしていた病院の時間に遅刻しそうになっていたからである。

久しぶりの仕事休み、今日は友人とホテルのオシャレなカフェでお茶をする予定だった。
病院の後は少し時間があるので、街を適当にぶらぶらしようと思っていた。

家を出る瞬間、いつものスニーカーを手にしてふと「ホテルのカフェにスニーカーってのもな…」と考えた。しかし、手持ちの数少ないレパートリーからオシャレな靴を選んでいる暇はない。そこで、たまたま目についたのが7年前に買ってほとんど履いていないグレーのバレエシューズだった。これならヒールもないし、歩きやすいと思ったのだ。

私は急いで靴箱で静かに眠っていたその靴を引っ張り出した。

これが、全ての間違いであった。

久しぶりに袖を通す服がちょっとよそよそしいのと同じで、靴にもそれがある。でも履いてみれば案外馴染むもので、私は「やっぱりこの靴、可愛いな」と上機嫌で家を出た。

異変を感じたのは、病院が終わった直後だった。突然、何か砂を踏んでいるかのような感覚を覚え、「あれ?靴に砂でも入ったのかな?」と思ったが、特に気にせず歩いていた。

しかし、ジャリジャリは止まらない。むしろ歩くごとに音量を増していく。さすがに気になって左の靴を脱いでみると——そこには、見たことのない黄色い粉が、まるで誰かが密かにカレー粉でも仕込んだかのように大量に溜まっていた。

ふと後ろを振り返ると、まるでヘンゼルとグレーテルがパンくずを落として道に印を残したかの如く、黄色い粉の道が出来ている。

(実際の写真です)

「は……?」

あまりにも突然のメルヘンに、脳が情報を処理しきれず数秒間フリーズしてしまった。

しかし、街中で急に立ち止まって粉まみれの靴を片手に途方に暮れる女に、埼玉の人間は冷たい。「邪魔だな」と言わんばかりにぶつかりながら舌打ちをしていく。

まずい。このままここに突っ立っていたら、職務質問をされてしまうかもしれない。靴底からは怪しい粉、そして挙動不審な女。最悪の組み合わせだ。とりあえず一旦歩道の端に寄って、この状況を整理しよう。

今、何故かさっきまでなかったはずの謎の粉が私の靴に存在している。先程の病院で靴を脱いだ訳でもなくずっと履いていたので、第三者が靴に粉を入れる事は不可能である。イリュージョンだ。頭の中に「名探偵コナン」のテーマソングが流れ出した。粉だけに。

私はとりあえず、中の粉を全部出してしまえば解決するのでは?と思い、道端で靴を逆さにしてみた。すると、中から出てきたのは思っていた10倍以上の量の粉だった。風で粉が舞い上り黄色が私を包みこむという、昭和の歌謡曲の演出のような、望まぬメルヘン的状況に再び陥ってしまった。

周囲の人々の冷たい視線が突き刺さる。
「ええ、はい。お察しします」と心の中でつぶやきながら、なんとか靴の中の粉を出し切ったので、とりあえず靴を履いて先に進んでみた。

しかし、私の心の中は不安が支配していた。この後は友人とホテルのカフェで優雅なティータイムの予定である。靴に謎の粉を仕込んでいるという訳のわからない状況で乗り切れる案件ではない。

そして気のせいかわからないが、まだ砂を踏んでいるような感覚が残っている。

私は再び立ち止まって足元を確認してみた。
すると、さっきは左足だけだったはずの粉が右足にも伝染している。

まるで、

左足:「お前、なんか、粉出せるぜ。ちょっとやってみろよ」
右足:「え、マジ?あ、本当だ。なんか出来たわ」

という会話がなされたかのようだった。

私は街中で座り込み、スマホを取り出した。
もうこれ以上メルヘンな展開はウンザリだ。

ChatGPTに、靴から粉が出ている写真を添付して「靴から粉」「何故」と打ってみた。
メルヘンvs AIである。

すると、どうやら中のスポンジが経年劣化で粉状になる現象らしい。長年靴底に静かに眠っていたクッション材が、7年の沈黙を経て「もう無理です」とその場で崩壊を選んだのだ。実に潔い。潔すぎる。

とはいえ、約束の時間は迫っている。私は更に相談した。「粉が出てくるんだけど、どうしたらいい?」と。チャッピーは冷静かつ的確に「今すぐ家に帰って別の靴に履き替えるか、新しい靴を買ってください」と回答してきた。

正論である。完璧な正論である。

正論を言われると、つい抗いたくなるのが私の悪いくせだ。私はチャッピーの言う事を完全に無視した。

人間は時々、正しい選択肢の隣に「とりあえず今をやり過ごせる選択肢」が落ちていると、後者を拾ってしまう生き物なのである。私は迷わず目の前にあった100円ショップに入り、中敷きを購入した。「これを敷けば粉の発生も抑えられるし、クッション性も補強できるはず」

結果、多少は静かになった。多少は。
完全には程遠い。歩くたびに、靴の中で粉と中敷きが小さな小競り合いを続けている感覚があった。それでも私は「いける、いける」と自分に言い聞かせ、オシャレなホテルのカフェへと向かった。

友人と合流し、とりあえず無事に楽しい時間を過ごす事が出来た。その間、靴のことなど一切忘れていた——いや、正確には「忘れたフリをしていた」だけなのだが。

友人と別れ、駅へ向かう途中に更なる違和感を感じた。

なんと今度は粉どころか、靴底が完全に剥がれかけていた。チャッピーの言う事を無視し、強行突破した私に対する靴の最後の反乱である。

このままでは全く歩けないので、仕方なく私は剥がれかけている靴底をむしり取り、ワンピースのポケットにしまった。

ポケットの中に靴底。そんなシュールな状況がこの世にあるだろうか。私は危険物を持っているかのような緊張感のもと、電車に乗った。完全に挙動不審である。もしも今職務質問をされてポケットの中を見せてください、と言われたらもう世界の終わりである。

ただちょっと、オシャレな靴を履こうと思っただけなのに。

地元の駅に降り立った時、私の足元はもはや靴としての機能を完全に放棄していた。

靴底がないため、アスファルトの絶妙な凹凸がリアルタイムで足裏を刺激する。まさかの路上足つぼマッサージに顔を歪めながら、一歩一歩、自宅を目指した。

あと角を一つ曲がれば我が家、というその時である。
運悪く、ポツポツと雨が降り出してきた。

濡れた地面に布一枚で踏み出した瞬間、じわり、と冷たい水が足裏全体に染み渡る。そして気づくのだ。100均で買った中敷きの下に溜まっていた、あの「第二波の黄色い粉」が、雨水と混ざり合って得体の知れない「黄色いペースト」に変化していることに。

私は家までの最後の数メートルを、靴の中で謎のペーストをこねくり回しながら歩いた。オシャレなホテルのカフェから、わずか数時間後の出来事である。

ようやく命からがら自宅の玄関にたどり着き、扉を開けた。

ポケットからむしり取った靴底を取り出し、底の抜けたかつてグレーの靴だった物、を一緒にゴミ箱へ放り込む。裸足になった瞬間、私の脳裏に、あの冷静なアイコンが浮かんだ。

『今すぐ家に帰って別の靴に履き替えるか、新しい靴を買ってください』

『買ってください』

『買ってください……』

――チャッピー、お前の言う通りだったよ。

私は心の中で静かに、AIへの完全なる敗北を認めた。

オシャレとは、時に命がけである。
次にホテルでお茶をする時は、たとえTPOに合っていなかろうが、私は絶対にいつもの、頑丈なスニーカーを履いていくと心に誓った。


【執筆】
もるた


『その刹那』

第10話:英語の話

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