矢野信一郎

『それぞれの本当を尊重する生き方』
矢野信一郎が創る Goozen という場

※ページ毎に Goozen にて開催された展示のフライヤーをご覧になれます


「障害がある人もない人も。さまざまな人が表現する日常アートギャラリー」とコンセプトを掲げて、横浜でアートギャラリー、イベントスペース『Goozen』を運営している矢野信一郎さん。

かつては自身も手を動かす作家であった矢野さんが2022年にオープンした同ギャラリーは、矢野さんのエッセンスがたくさん詰まっており、人生をよりよく育んでいく契機となる場所です。

矢野さんご自身が感じてきたこと・体験してきたことにより生まれたポジティブなエネルギーが、作家さんのエネルギーと混ざり込み他にはない空間が作り上げられています。

過去の作家時代のお話し、ギャラリーについてのお話し、子供の頃の印象的なエピソードなどを通して矢野さんが今まで感じられてきたことをお伺いしました。ひとつのメッセージとして受け取りお読みいただけますと嬉しいです。

<インタビュー>

『概念の中で自由なことをしなければいけないと思っていたけど、それは違っていた』

1.創作活動についてお話を聞かせてください

-最初に創作されたのはいつですか?

矢野信一郎:子供の時に漫画が好きで漫画を描いていたんですよね。みんなそういう経験すると思うんですけど、小学校ぐらいの時は漫画家になろうと思っていた。

-なるほど。自宅に本などたくさんある状況だったんですか?

矢野信一郎:日常的に本があったのは確かで、本は好きだったけれど、小説とか読み始めたのは遅くて本当に漫画が好きで。小学生の時は漫画に特化していましたね。

-最初に面白いと感じた漫画はありますか?

矢野信一郎:幼稚園に入る前に永井豪のね。その時、「マジンガーZ」、「デビルマン」が流行っていた。テレビでもやっていたしすごく好きで。ただ、アニメと漫画は全然違って永井豪の漫画はテレビにできないんですよ。生首とか置いてあったりね。……ちょっと今は無理そう。

ヒーロー系や少しエロい感じ、「キューティーハニー」とかね。豊満なおっぱいがちょっと見えている。子どもたちのそういう心をくすぐるわけ。最初はその辺りでしたね。

「キューティーハニー 2巻」

-漫画に没頭されていたんですね。

矢野信一郎:小学生の時にお正月にお年玉をもらうと、神田の古書店街に昔の漫画を見に行っていた。当時、リアルタイムでてんとう虫コミックス*1があって、それの前に手塚治虫の虫プロが出していたコミックスがあって。虫プロ版のコミックスは全部絶版になっていて、そこにしかなくて小学生だから買えなかったけど、よく行っていた。

その辺の近所の古本屋でも、今は売っていないであろう手塚治虫の初期のSF三部作*2など、そこまで値段が高くなかったので探して買ったりしていた。

「矢野氏が読んでいた漫画」

-文章も読まれていたんですか?

矢野信一郎:文章読むのはあまり好きじゃなかった。母親は「ちゃんとした本を読みなさい」と言ってましたね。……「ちゃんとした本」と言ってて(笑)。

-(笑)。

矢野信一郎:そういうのはずっと言われてましたよ。小学校の時、夏休みに課題図書があって「感想文を書きなさい」みたいなのが本当に嫌だった。解説だけみて書いたりしていました。それぐらい文章を読みたくなかった。

-反抗心からくるやつですか?

矢野信一郎:そんなことなくて、ただ単に嫌い(笑)。面倒くさい。

-どういう小学生だったんですか?

矢野信一郎:すごい優等生でした(笑)。中学生ぐらいまでは勉強ができました。ただ勉強するのが本当に嫌いだった。

-勉強しなくても点が取れる感じだったんですか?

矢野信一郎:そういうとちょっとあれだけど(笑)。でも、勉強の仕方が下手だったと思う。後々になって気づくんですけど、今やられている学校教育に対して順応して効率よく覚えられる方法が必要で、だから基本的に丸暗記なんですよね。

そういうのやるのが本当に嫌だった。

-面倒くさいみたいな…。

矢野信一郎:でもズルいので、やっているフリは上手いんですよ。やっている風にしていたけど、実際はやっていなくて割とそこそこの点数は取れるんですよ。だから、舐めていたと思うんですけど、それでずっといっちゃったのね。

中学ぐらいまでは何とかできていたけども、高校に行くとそういうわけにはいかない。ずどんと成績が落ちて。

-高校も神奈川ですか?

矢野信一郎:新設の高校で俺らが2期生だった。

-高校に入学される時には絵を描くなど、創作活動は始められていたんですか?

矢野信一郎:その時は絵なんて全く描いていないです。

-小学生の時に描かれていた漫画くらいですかね。

矢野信一郎:小学生の時はそうですね。中学に入って精神的にやられだしてね。だから、小学生までが子ども時代で小学校を卒業するのがすごく嫌だった。すごく暗い気持ちになって。小学生の時は、積極的に手を挙げたりはしないけど、推薦されて学級委員になるみたいな存在だった。

-おお、それはいわゆる優等生ですね。

矢野信一郎:そうですね(笑)。何人か集めて自主的に学級新聞を作って、クラスのくだらない話題を記事にして壁新聞を作ったりだとかそういうことはやっていましたね。

-今から振り返ると、中学生の時はなぜ暗い気持ちになったと思いますか?

矢野信一郎:さっき言ったように子供時代が終わっちゃったから(笑)。小学校の時の友達と中学に入った時の周りの人たちでは、自分の印象が全く違うと思うんですよ。小学校ではクラスの中心にいたんですけど、中学になったら全くどこにいるかわかんない感じになった。それで、(ジョン・レノンのレコードを指さして)こういうのが来たんですよね。

「ロックン・ロール – ジョン・レノン」

最初はビートルズでロックが拠り所になった。それまでは基本的に大人の言うことを聞いていたんですよ。まともなことを言っていると思っていた。でも、そうじゃないということをこの人たちが教えてくれて(笑)。

「そっか、いいのか」と思い始めて、そんなに無理して優等生の道に行かなくてもいいんだと。

-そう感じられるのは、当初から世間的な意味での正しい道のようなものを意識されていたんですかね。中学生の時に聴き始めた音楽は「アーティストが自分の思いを代弁してくれている」といった感覚なんですかね。

矢野信一郎:あとから考えれば、歌詞も重要ではあるんだけれど、洋楽だったら直接それが入ってくるわけじゃないから、声であったりサウンドが発しているエネルギー。それが一番しっくりきたんだと思います。

中学の時はビートルズの詩の研究みたいな本を買って読んだりもしましたね。レコードに訳された歌詞がついているから、見ながら聞いていましたね。

-内面に刺さったのは音楽が最初だったんですね。

矢野信一郎:そうですね。学校や大人、社会で言われていることが必ずしも正しいことではなくて、あらゆることは言われていることの逆という感じをその頃のアーティストは言っていたので、それを全部鵜呑みにはしてはいないんだけど、安心感が得られましたね。

こういうことを言っている人もいるんだって。そういう意味で拠り所でした。でも、中学ぐらいまでは自分がロックを聴いていることを人に言えなかったんですよ(笑)。

「取材の当日 Goozen に置いていたCD・TAPE(1枚目:Daniel Johnston、2枚目:The Jesus and Mary Chain/Dinosaur Jr.」

-それは、悪いことをしているみたいな罪悪感ですか?

矢野信一郎:多分、世代的にそのときビートルズを聴いている人が少なかった。俺が中2ぐらいの時にジョンの最初の奥さんとの息子のジュリアン・レノンがデビューしていた。それが脚光を浴びていた。すぐに日本に来て武道館でライブ。

-親の七光りな部分もありそうですね。

矢野信一郎:のせられちゃった人なのよ。ある種、ビートルズは70年代の途中から「もう、ビートルズではないだろう」という時代の空気があって、80年代にはビートルズはかなり過去の人だったんですよ。もちろん、好きな人はずっと好きだと思うんですけど、今は確立されていてビートルズは揺るがないものだけど、当時はぐらぐらしていた。

ジョンが死んだのもそのちょっと前で、そういう生々しさもあったのかなと。少し中途半端な状態というか。90年の半ばくらいにアンソロジー、アーカイブが始まって、その時に活躍していたバンドの人たちが取り上げてね。

「1980年12月8日 ジョンレノン暗殺事件ニュース」

だから、その前の世代の人たちは割とビートルズを否定していたと思う。だけど、それ以降の人たちはちょっと離れているから純粋に「ビートルズは良かったじゃん」と言い始めている。60年代に影響を受けた音を出し始めていて、その辺りから雰囲気が変わったんですよね。

60年代からやっていた人の80年代ってみんなださかったんですよ。過去の人になっていた。

「『抵抗とかロックンロール』で展示された千野六久氏の作品を持つ矢野氏」

-音楽で成功しお金を持ったり、しょうがない部分もあるのかもしれないですね。

矢野信一郎:そうですね。ジョン・レノンは幸か不幸かそれを経験せず死んでしまった。生き残っていたらそういう目にも遭っていたかもしれない。かっこいいまま死んじゃった。

-そういえば、ビートルズのアニメが夕方にやっていましたよね。

矢野信一郎:やっていましたね。夕方はゴールデンタイムだったんですね。アニメの再放送とかいっぱいやっていて。ウルトラマンでいうと「ウルトラファイト*3」。「ウルトラファイト」という5分番組があって、着ぐるみで石切り場、崖みたいなところで等身大のまま戦うんですよ。「おおっーと、投げ技が……!」とか言って(笑)。

ただ単にウルトラマンと怪獣がガチでプロレスみたいに戦うだけ。

「『ウルトラファイト』 第077話 <セブン必殺の荒技!>」

-アニメもよくご覧になられていたんですか?

矢野信一郎:再放送で観ていましたよ。あと、ドラえもんは俺と同い年で70年に連載が始まって、最初すぐにアニメ化されていました。日テレで放送されてすぐに終わっちゃったので、みんなの記憶にあまり残っていないと思うんですけど。

-「ハア ドラ ドラ……」という主題歌のやつですか?

「日テレ ドラえもん OP」

矢野信一郎:再放送だったと思うんですけど、3歳ぐらいの時にどういう映像だったかは覚えていないんだけど、ドラえもんを観ていたことは覚えていて。なぜかというと、うちの母親になんか言われて「これからドラえもんを観るから」と言い返して、そしたら母親が「ドラえもん?何?土左衛門*4じゃないの」って(笑)。

-(笑)。

矢野信一郎:それをすごく覚えていて、あとから土左衛門の意味を知った時に「そんなアニメあるかよ(笑)」と思ったのを覚えている。

今みんなが知っている大山のぶ代の声のドラえもんは、俺らが小学校3年生の時ぐらいに始まったんですけど、その少し前にドラえもんをアニメ化しようという動きがあった。コロコロコミック*5に葉書が付いていて、子供たちに「署名を集めて下さい」と。

親とか知っている人に書かせた覚えがありますね。

-それで本当にアニメ化されたんですね。

矢野信一郎:そう、本当になった(笑)。

-コロコロコミックにそういう葉書きがついているみたいなことはよくあったんですか?

矢野信一郎:いや、ないと思う。ドラえもんはコロコロが創刊されて、また人気に火がついてアニメ化まで進んで。最初観た時にすごい声に違和感があって「これ?嘘……。これがドラえもんか?」と思ったのはすごい覚えています。

-話は少し戻りますが、中学性の時は楽しいという感覚はなかったんですね。

矢野信一郎:そうですね。そこから10代は楽しくないです(笑)。

-10代までいくんですね……。部活はやられていたんですか?

矢野信一郎:写真部に入りました。そこが運動部崩れの巣窟だったので、半不良の匂いがする。ヤンキーのフレイバーがする部室でした。3年生の人たちは1年生に興味はないんですけど、2年生に1人だけ変わった人がいて、しごいてくるんですよ。写真部なのに腕立て伏せとかね。

当時、運動部は特にそうですけど、挨拶も異常なまでに厳しかったり、少しでも何かあるとしごきがある。それと同じようなことをやらされていて、1年の間は写真部をやっていたけどそれが嫌で辞めました。

-写真自体を撮ることが楽しい、などもなくですか?

矢野信一郎:うーん。そうね。別に普通ですね(笑)。

-楽器とかもやられたりしていたんですか?

矢野信一郎:そうですね。ガチャガチャとやっていましたけど、別にうまいわけでもなく。

-イラストの専門学校は高校を卒業してからですか?

矢野信一郎:高校は、新しくできた新設校でゆくゆくは進学校にするみたいなところで、神奈川県ってアチーブメントテスト、略してアテストというものがあった。学区で行ける高校が決まっていて、その中でランクがあったりするんですけど、俺らの学区では県立相模原高校、通称「けんそう」が偏差値として一番トップにありました。

新設された学校は県立相模原高校よりも上の学校にする目的で建てられた。ゆくゆくは子供が少なくなるから、何十年か後には老人ホームにする計画までしていた。

-すごいですね。

矢野信一郎:神奈川全域で受験のための選別テストみたいなアチーブメントテストを受けて、それで高校には行けたんですけど、ある程度勉強ができる人が行くところで、さっき言ったように進学校にする目的もあり、あまり簡単な内容のことをやっていなくてついていけなくなった。

そのうち、学校をさぼったりしてね。さぼってもお金もないし行けるところもないので、自転車で神社などに行ってそこでお弁当を食べて友達と喋る。その程度のことです(笑)。

-お弁当はきちんと持って行っているんですね(笑)。

矢野信一郎:高校は部活に入らず、本はそれで高校生ぐらいから読み始めましたね。

-高校生の時は「将来はどうしようか」など考えていましたか?

矢野信一郎:勤め人にはならないなという風に。勤め人になることを一度も考えたことがない。

-翻訳家であるお父様も勤め人ではない感じですよね?

矢野信一郎:色々な時期があります。完全に翻訳しかやっていない時期もあったり、晩年は大学で教えたりしていましたね。サラリーマンではないので、勤め人というイメージはなかった。

-それも大きいですよね。そういう意味では、会社に勤めなさい的なプレッシャーはなかった感じですかね。

矢野信一郎:そうですね。それはなかったです。

-学校をさぼったりして、高校生の時は親御さんから心配されたりしていたんですか?

矢野信一郎:どうですかね。割と放任主義だったんですけど、母親は心配していたと思う。

-高校の時、友達とどういった話をされていたんですか?

矢野信一郎:ほぼ、覚えていない。バンドやっている人と友達になったりしていたけど、そんな実のある話はしてないです(笑)。

-なぜ、イラストの専門学校に行くことになるんですか?

矢野信一郎:どうしたんだろう。その頃はあんまり明確なビジョンもなくて。本を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたりしていたら、みんな言っていることは一緒なんだなと思って。

要するに、色んなジャンルに分かれているという風に捉えていたんだけど、自分が共感できる人がどの分野にもいて。結局は表現の仕方が違うけれど、同じことを言っていると思い始めて、そうすると音楽が好きだからといって、必ずしも音楽をやる必要はない。

同じことを違う表現でやれる。あと、音楽や現代アートなど密接に繋がっているじゃないですか。

-それでイラストを選ばれたんですね。

矢野信一郎:高校を出てバイトしたり、最初は大学に行こうと考えていて浪人したけど、勉強が出来なくて大学に結局いけなくて。その頃は、勉強の仕方もわからず、今考えれば「こうできたな」とかあるけど、その時はそれしかできない。だから、結局大学も受験したけど、落ちたしどうしようかな。じゃあ、絵でも描くか。どう思っていたかよく覚えていないけど、そんな感じです(笑)。

-なるほどです。

矢野信一郎:そこからデッサンをして美大受験のために色々とやらなきゃいけないとなると、時間がかかるしそれはさすがに待てないと判断して、この状態で行ける学校にいこうと思って、デザインの専門学校に行きました。

-その時までは創ったりはしていなかったんですね。流れでなんとなく始められた感じなんですね。

矢野信一郎:この話をすると長いですけど、結局、今と繋がっていることをいうと Goozen を始める数年前に精神的に一番堕ちていた時期がある。それを経験したので、ある意味でこだわりが何もなくなった。その時に障害者の人たちと関わったり、それまで考えてこなかった、やってこなかったことをその時期に経験して、考え方もすごく変わって吹っ切れた部分がある。

そこで、要するに自分が本当にやりたいこと、やるべきことが別に絵を描く、作品を創る、いわゆる創作活動でなくていいんだと。創作そのものが目的ではない。自分がやれることを考えると、創作ではないなと。

自分が本当に大事に思っていることが、創作じゃなくてもできる。むしろ、それじゃない方が良いのかな。

-なるほどです。

矢野信一郎:自分が悩んだり、うまくいかないと思っていることも今考えると実は自分でそうしているんです。それを解くには一回手放さないと。割と堕ちるところまで堕ちないと見えない。表向き望んではいなかったけど「そうなっちゃった」。そこで一回人生が終わった感じです。

-ターニングポイントですかね。何もしていない時期はどれぐらいあったんですか?

矢野信一郎:どれくらいだろう。人に会わなくなった時期もあります。

-そんな時期もあったのですね。

矢野信一郎:そういう厭世的な時期ってあると思うんだけど、その期間は人によって様々だし時間は関係ないんですよ。人間には常に今しかないわけだし。

-堕ちたのは具体的な出来事があったんですか?

矢野信一郎:小学校や中学校でこういう風に思っていて、音楽があって違う方向があるみたいな話をしましたけど、そう思っていても「これですよ」と言われている社会の価値観からは出られていないわけ。ロックもその中に入っちゃっている。

-ある価値観の枠の中で救われたりしていたということですね。

矢野信一郎:拠り所にはなっていたけど、枠の外に出ることはできていないから、ある意味で堂々巡りになるんですよね。枠の外をなんとなくは感じてはいるけど、具体的にどうしたら外に出られるのか。外に何があるのだろうとか、そこまで突き詰めていなかった。

今は色んな謎が解けてきたというか、それまで言われていたことがあんまり関係なくなった。昔はすごいとらわれていた。

-具体的に同業者の人に何かを言われたりしていたんですか?

矢野信一郎:何かドラマを求めていますか(笑)。

-いえいえ(笑)。デザインの学校に行って思うように描けていたんですか?

矢野信一郎:思うようには描けていないと思うんですよね。その不満もあった。なのに、なぜ続けているのかというのもあるんだけど、そこから出る勇気もなかった。勤め人にはなれないとはずっと思っていたので、いざ他のことをするといっても、何をどうすればいいのかもわからず、とにかく発想が自由ではなかった。

-ミュージシャン、イラストレーターなど与えられたある概念に嵌めていこうとしていた感覚ですかね。

矢野信一郎:概念の中で自由なことをしなければいけないと思っていたけど、それは違っていた。

-その考えが根底にあり、さきほどおっしゃられた堂々巡りが起こっていたわけですね。

矢野信一郎:そうですね。作品を創るというのも作品と自分がイコールになっていないと。作品が自分だからものすごい不満があるわけですね。どんどん、自己評価が下がっていく。

今、関わっている作家の人たちをみていても売り込むのが上手じゃない人が割といますけど、「これが僕ですから。どうぞ、よろしく」とは、なかなか出来ないじゃないですか。

作品を発表してもどこかで自信がないから、それと自分がイコールになっているので、現実の自分もどんどんと縮小されていく。それを経験しているから今の発想があるとは思うんですけど、それにずっとのっかってやっていたので、最終的に人にあんまり会いたくないというところまでいったりするんですよね。


「作家時代の作品」

「装訂を担当した書籍『夢をかなえるゾウ』」

-作品を褒められたりしても素直に受け取れない状態なんですかね。

矢野信一郎:うーん。その時は嬉しいけどね。けっきょく自分は世間でいう作家像にのっかる能力が元々なかったと思うんだけど、ここで生きていくためにはそれをやらないと無理だろうなという気持ちがあって、のっかろうとしているんだけどできないジレンマ。

-一時的に褒められて嬉しくとも、最終的にはそのジレンマからは逃れられないということですね。

矢野信一郎:そうそう。ある状態にならないと認められない世界なので、そこにあてはまらない自分をどうやっていけばいいのか、よくわからなくなってきていた。

-創作自体に喜びを見出すことはなかったんですか?

矢野信一郎:いつも不満を抱えていましたね。でも、今作家と関わるときにそれをやっていた経験が役に立っているとは思う。マイナスの部分とプラスの部分と両方なんとなくはわかっているので。だからこそ、あまり作家さんに口出しはしないです。

実際に自分が作家だった時、強がっていたから見た目には今と大差ないと思うけど捉われていたから苦しかったはずなんです。

-枠の中にいる限り、ということですね。

矢野信一郎:だから、独自に自分の人生を生きていく、そこまで吹っ切れる勇気もなかったし、社会の常識的なものとどこかで折り合いをつけなきゃいけない、それをやっておかないと生きていけないなみたいな感覚。でも、なんかうまく出来ない。自信が持てないのではっきりとしないんですよ。

-どっちつかずのような態度になるんですね。

矢野信一郎:そうですね。その時は何か自分に価値がないと生きていけないと思っていた。今は逆に何もする必要はないと思っています。

-どこかで何者かにならなきゃいけない気持ちがあったんですかね。

矢野信一郎:そう。何者にもなってやるもんか(笑)。と、今は思っているけど、その時は確実に何者かにならないと生き残れないと思っていたので、そういう風に葛藤していたと思う。

-自分の手を動かして創作されることはもうないのですか?

矢野信一郎:違う形で創作は今もやっているといえばやっていますね。

みんな、自分の「現実」を創り出しているんです。毎日あらゆることを創造している。そのことに気づいたので、何をやっていてもいいんです。「作品」と呼ばれるものを創っても良いし、創らなくても良い(笑)。


*1 てんとう虫コミックス…小学館が発行する日本の漫画単行本レーベルの一つ。
*2 SF三部作…『ロスト・ワールド』(昭和23年)、『メトロポリス』(昭和24年)、『来るべき世界』(昭和26年)を刺す。
*3 ウルトラファイト…1970年9月、月曜から金曜までの帯形式で夕方5時30分~TBS系列で放送されていた。
*4 土左衛門…おぼれて死んだ人のからだ。水死体。腐敗が進みガスがたまって膨れ上がった姿が享保(1716〜1736)ころの大相撲の力士・成瀬川土左衛門に似ていたため「土左衛門」と呼ばれる。
*5 コロコロコミック…月刊コロコロコミック。1977年5月に創刊された小学館が発行している小学生向けの月刊漫画雑誌。



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