『こぼれる美術作家』
※1ページごとに、本人の作品をご覧になれます
人は”相手にうまく伝わっていない”と感じると歯がゆさを覚えるのかもしれません。
しかし、果てして本当にそうでしょうか。伝わらないことは可能性でありかけがえのない魅力とも言えるのかもしれないのです。
その新しい視点を提示してくれた小林大悟さんの個展「 (伝わらなさの、困難と魅力)。」が中目黒ヘルツアートラボで開催されていました。そこにお邪魔してワークショップや展覧会、個展など精力的に活動を続ける小林さんの創作に対するスタンス、歩んできた道をお話しいただきました。
言葉にならない抽象的な感覚に対しても適切な言葉を見つけようとする、その姿勢はピッチャーの失投を根気強く待つプロの強打者のようです。
今回はそんな美術作家・小林大悟さんの脳内を少し探索してみましょう。
<インタビュー>
『何かを想定するけど、想定通りになってしまう怖さというか。ある意味、自分の想定のつまらなさを痛感している』
1.なぜ創作をやっているのですか?
小林大悟:吐き出したいという衝動もあれば、素直な向上心や承認欲求。色んなものが混ざっているので、何が発端で今に至るかと言われると答えは難しいですね。ワークショップとかも含めて色んな人の作品や考え方に触れる中で、やってみたいことやアイデアが浮かぶようになって「やってみよう」となって今に至ります。
-明確な理由があるというか、新しい制作の中でさらに新たな疑問とか生まれて、追いかけているうちに…という感じですね。
小林大悟:そうですね。過程の中でこういうものを目指してみたいとかはあるんですが、最終的な、どこか、明確な何かに向かっていっているわけではない。
-作品を創るぞ、と思う瞬間はありますか?
小林大悟:なんですかね。根詰めて何かをした後、ふと気を抜くと絵のイメージや衝動が浮かんできて今度、時間があるときにそれをやろうとなります。今はその場ですぐに取り掛かれない環境なので、ストックとして頭の片隅だったりメモを取ったりします。
-ある程度の期間は寝かしておくんですね。
小林大悟:寝かす面もあるし、寝かさざるを得ない面もあります。
-環境的に寝かさざるを得ないということですね。
小林大悟:そうですね。それが功を奏している部分もあるので、一概に今の環境が悪いとも言えない。
-“功を奏している”というのは具体的にどういった部分ですか?
小林大悟:その場で湧いた時のものは冷静さに欠ける、その分のエネルギーは確かにあるんですけど、衝動が湧いた時にその場でワッとやってしまうと冷めるのも早いというか、やった後に冷めてその後はもう手が付けられなくなってしまう。
『何を受け取るにしても自分とはずれる、ずれたものがどんどん溜まってくるとそれを出したくなる』
2.創作の方法について教えて下さい
-絵を描かれるときは衝動的に描かれるのですか?
小林大悟:衝動ありきの部分はあるんですが、展示の発表など必要に駆られてそういう時にはやらざるを得ない、やたら予定を詰めているのが悪いんですけど。ストレートに目標のモノができることの方が少なくて、必要に駆られている中で別のものが浮かんじゃったという感じで新たなストックが生まれるのはありますね。
-その別のストックの方をどんどん進めていく感じですか?
小林大悟:出来る時はそうなりますね。
ただ、大元の締め切りが迫っているときもあるので、それは一回片付けなきゃって。でも結局どっちもやっちゃうみたいなのはありますけど。
-そういう時間の回し方なんですね。創作ひいては行動をするときは”今はこれをやる時だ”みたいな感覚はあるんですか?
小林大悟:そうですね。社会的な制約、期限の面ももちろん欠かしてはいけないけど、それと衝動というか、そこからはみ出ていいものができる予感というのも取りこぼしたくない。まあ、欲張りですよね(笑)
良いものを創ろうと思って、良いものを狙ったものだけではダメなんですね。
やっぱり社会的制約の中でこぼれた、こぼれる部分が多いので、そっちも逃さずにこっちはこっちでやるけど、こっちのぽろっと出た部分、場合によってはぽろっと出た部分を大元の方に付けて…というのもある。
とにかく自分の想定通りになる方が怖い。何かを想定するけど、想定通りになってしまう怖さというか。ある意味、自分の想定のつまらなさを痛感している。
-その衝動やこぼれたものはどこから生まれてくる、どういうもので構築されていると思いますか?
小林大悟:自分の日常の中で見聞きしたあらゆるものだとは思っています。漠然と日常を観察して見つかることもあれば、上澄みの部分というか、意識的に美術展に行ったり専門的な本を読んだりすることで得ることもあります。
どっちかだけだと自分は堅苦しくなる、どっちも必要だなって。日常的な観察の時にはそんなに素直にものをみれない。高尚な文章に触れてもそれもまた素直にみれない、高度な解釈はできない。どちらも自分の等身大で見てしまう。それがずれる時になんとなく衝動が生まれる。
-いずれにしろ、ずれてしまう?
小林大悟:そうですね。何を受け取るにしても自分とはずれる、ずれたものがどんどん溜まってくるとそれを出したくなる。そういった循環があるのかなと思います。無理繰り吸収せずにある程度パターン的に作ることもできるんですけど、それをやり続けると自分の中で枯れてくる感覚がすごいある。
-先ほどの”想定通りになってしまう怖さ”と繋がりますね。
小林大悟:ですね、カラカラになる感じ。逆も良くないんですよね。
常に僕のキーワードはバランスです。吸収だけをしすぎると、例えば難しい本とか専門的な本を読むとか、ものすごく染まって自分の言語が消えていく。影響を受けやすいのかな(笑)
-自分で創りだしたバランス感を大切にされているんですね。物事を定義づけるのすごい難しいと思います。対比のバランスを先ほど挙げられましたが、観察する時のコツや気を付けていることはあるんですか?
小林大悟:すごい素朴に問いかける癖があります。それをやりだすと何も出来なくなるくらいの、例えばここに壁に絵が飾ってありますけど「そもそもなぜ壁に掛かっている絵を見るのか」「なぜ目線をこの高さにしなきゃいけないんのか」とか…それを言い出したらきりがないんですけど。
美術館に来る人の平均的な目線の高さが145㎝とかルールとして知っているんですよ。知識がある上でそういうのを一回置いといて。なんだろう、今適当に言いますけど「白い壁に飾らなきゃいけない絵ってなんだ」とか、後なんだろうな…ちょっと客観視して小馬鹿にする感じに近いかもしれないですね。
それを直接言ったり、ストレートに表現したりすると嫌味でしかないんですけど、頭の中ではいくら小馬鹿にしても悪いことじゃないと。ある意味、揚げ足取りというか常識を疑うというほどではないですが、自分の中の別の視点を、素朴に思ったことを自分の中で一回肯定する。思ったものは仕方ないというか(笑)
-肯定するの大切ですよね。
小林大悟:それに対して何をするかですね。ただそう思っただけが大体ですし、全然違う方に広がってアイデアに繋がることもあれば、教科書的な正しい回答、こういう理屈でこうですとか、そのどれに行きついても楽しいなと思っていて。というのも自分自身の無知、基礎的に自分が馬鹿なことも知っていて…と言ってしまうと、すごい高尚に聞こえますけど(笑)
それこそ教える立場だったり作家活動している中で、本当に自分の育った環境はしょうもねえなと思うことがすごい多くて、しょうもないからこそ開き直れるとも言えるのかなと。
-根底ではしょうもないと思っているからこそ、肯定できるのかもですね。
小林大悟:そうですね。ちっちゃい子とかも僕なんかより感覚がいいし、明らかに育ちがいいし、改めて嫉妬したりとかはないんですけど。むしろ、日本社会をよろしく頼むとかそういう気持ちなんですけど(笑)
一方でこの子は僕の育ってきた環境を知らないし、育ってきた環境がめちゃくちゃ最悪ってわけじゃないんですけど、接していると大人が案外馬鹿だというのも知らないんだなぁとか思いますね。教える立場になったのはここ2~3年なんですけど、演じている感覚がすごい自分の中にある。この空間の中では一応偉い立場に自分を置いています。
「ただ一部分において優れていたり、長く生きていたからそういう役割をしていられるだけなんだよなぁ」と思いながら一生懸命に演じる。演じること自体は嫌いじゃなくて、先生だけど間抜けな部分は間抜けだからとか、その時間の中で役割を降ろしたい部分はあります。
一応見え張ってカッコつけることもあるんだけど、素直に負けを認めたい部分。先生のくせにとまでは言う人はいないんですけど、ツッコみを受けることはあって、そうしたらやっちまったなという感じで。
-立場に関係なくフラットにみている感じですね。
小林大悟:いくらそう思ったとしても、先生だから関係性としては向こうが僕より下になってしまうんですよね。結局はその中でも関わりからは抜けられない、仕事として関わっている以上は契約というか。だから、やっぱり演じているという感じなんですよね。
-その中でも楽しくやられているんですね。
小林大悟:楽しいことばかりではもちろんないんですね。何もやらないでいいなら何もやりたくないというのもあります(笑)
実は今日のワークショップはぎりぎりまで固めきれなかったんです。あたかも精査したかのように吉増剛造の資料を見せたんですけど、ちょうど朝に何かないかなと思って書庫を整理していたら出会いました。
本を見るまでは吉増剛造を持ってこようという意識は無かったんですけど、たまたまそこにあって開いたらこれは使えるぞと、むしろドンピシャだと思って。そういう土壇場で偶然そこにあったものに助けられる、それはすごい危険というか、それだけじゃダメだしそれで大失敗を踏むこともあるんですけど、土壇場で全部自分の中で繋がる、そこがすごい快感というか。
-普段から観察や疑問を持つことによって生まれた繋がった瞬間な感じがしますね。
小林大悟:そうですね。グラフィティに詳しいわけじゃないんですけど、個人名や集団のマークを描いて回るタギングという行為があって、後は学生の頃にスーパーの棚卸のバイトをしたことがあって派遣チームで量販店に行って専用のバーコードリーダーみたいなのに当ててピピピッと在庫の数をチェックする、ちょっとチェックしておくというか唾をつけておくみたいな行為。
今挙げたグラフィティのタギングや棚卸の数チェック、自分の中のそういう感覚に近いんですけど、別にそれを占有しているわけでもないし、自分でも完全に全部は把握できていないんですけど、時々集めていたものにチェックをしておく、唾をつけておいたものにもう一回目配せをしておく。
“唾をつけておいたけど抱え込んだものではないもの”を自分の中でたくさん作っておくと、もちろん直接的に落書きするわけでも数字を数えるわけでもないし全然把握できていないんですけど、追い込まれると嗅覚が鋭くなる。
後から振り返ったらもっといいものがあったなと、やっぱり準備は大切なんですけど。
-周りの方も似たように、そういう感覚的な部分を持たれているんですか?
小林大悟:もちろん人によるんですけど、割とそういう抽象的な感覚で話せるというのは創っている側のメリットなのかなと思います。ある意味、年齢も経験値も分け隔てなく苦労を通じて話せるというのはありますね。僕が学校で助手の仕事をしていて、相談に乗るまでじゃないんですけど、作品についてああだこうだと言う中でお互いに正解はわからないけど言い合えるみたいな。
-共通言語をお互いに持っている感じですね。
小林大悟:そうそう。よく僕が思うのはモノを創られていない方だと、例えば合コンで「自己紹介してください」となった場合、合コンという”特殊な空間の中でお互いの素の部分を探るゲーム”みたいなものが始まると思うんです。合コンには行ったことはないんですけど、創っている人だと作品をみてどういう人か分析できる。それは武器で、創った本人としては全然そんな意図はないんだろうけど、自分は経験値からこの人はこういうタイプの人なんだろうなというのが読める。そういったコミュニケーションをとれるのは、作り手側の良い部分なのかなと。
-創作をしている身として、それはとてもわかります。
小林大悟:創っている人同士だと言葉で話さなくてもわかるみたいなのがあるんですけど、一方でそれはすごいスピリチュアルな宗教がかったやり取りにもみえる。めちゃくちゃ感覚的じゃないですか、傍から見ると胡散臭くもみえるというのはすごい感じます。
-たしかにですね。
小林大悟:僕、言うことは抽象的なくせに情熱とかスピリチュアルみたいな精神世界はそんなに好きじゃないんですよ、胡散臭さを感じる。胡散臭いというと失礼かもしれないんですけど、自分がやっていることを考えるとそんな偉そうなこと言えるのかって感じですが、ある意味それって全部を覆い隠せてしまう。
都合悪いことも含めて”なあなあ”にできてしまう怖さがある。本人が納得していて相手も納得している関係で、そういうやり取りはありだと思うんですけど、押し付けられると嫌だなぁと。そういうことに限らず、押し付けられるのが嫌なんだろうなと思いますね。それに対する反抗心みたいなのは制作においても教える立場においても共通していると思います。
-抽象的になりますが、すでにパッケージされたものをそのまま受け取るのは嫌ということですか?
小林大悟:そうですね。まあ一旦受け入れることもあるし割と言いくるめられやすい部分もあるので、その場では「なるほど」と思うことはあるんですけど、後で考えると「そんなにたいしたもんじゃないじゃん」とか。そこでちょっと失礼な自分みたいなのが出てくる。もちろん言う気もないし失礼だと思っていることによって別の情報が入ってきて、自分の見方がしょうもないなって思ったりもする。
自分のしょうもなさに気が付く、でもそれも嬉しいのはありますね。根本はしょうもないけど、だからこそ小馬鹿にできる楽しさというか、小馬鹿にしていたら「そんな小馬鹿にしているような解釈の仕方なんて甘いよ」って覆いかぶされる。自分の未熟さを痛感するみたいな、ある種の痛快さというか。