第7編

故永しほる『あるわたしたち』

 日本詩人クラブは会員ではない方または会友の方を対象に「新しい詩の声賞」を例年開催している。2021年は第5回の開催となり、最優秀賞は故永しほるさんの作品「咬合」に決定した。故永さん、おめでとうございます。
 私も日本詩人クラブの会員として、そして第1回で優秀賞をいただいたものとして、この賞が活発に続いているのは非常に嬉しく感じる。2020年の優秀賞に輝いた君嶋復活祭さんはその後、朗読・ポエトリーリーディングの表現にも積極的に活動し、私も色々とお世話になっている。
最優秀賞の故永さんだけでなく、優秀賞には瑠芙菜さん「初恋」、大西久代さん「夏草の中の小さな花」、オノカオルさん「夜に朝」の三作品が選ばれている。三名のご活躍も今後期待しております。おめでとうございます。
 リンクを貼っておきますので、ぜひ皆様お読みください。

日本詩人クラブ「新しい詩の声」2021(第5回)

 さて、故永さんが第一詩集『あるわたしたち』(私家版)を出版していることを知ったので購入して読んでみた。

(購入先)
https://booth.pm/ja/items/2194319

読みきれたとは到底言えないが、非常に鮮烈で不思議な読後感を残す詩集であったので、今回は拙い言葉ながら本詩集の魅力を少しでもご紹介できればと思う。

 この詩集には僕と私のどちらかが主語となる作品群と、その他に分かれている。全20編中、僕が語り手の詩が7編、私が語り手の詩が8編、語り手に主語を持たない詩が5編。詩はそれぞれに独立して連続性のないものと見るべきかも知れないが、今回に限っては連続性ということを考えながら読んでみた。

僕が語り手となる冒頭の作品「片目」はこんな詩行から歩行をはじめる。


 夜な夜な僕は
 僕にない教会へと歩く


〈僕にない〉とは逆説的に誰かにはあるものに他ならない。その誰かが不特定多数のものであるのか、別の語り手である私なのか。僕は夜の中を歩みながら、様々な思想を繰り広げる。〈この怯えた風景は/僕ではない誰かのものだ〉と自らの立ち位置を客観視し、〈うまれるまえの罪〉やいまなおある〈余罪〉や死後に残るもののことを思索する。〈教会〉に向けて歩くけれど、その土地はすでに立ち入り禁止となり〈取り壊し〉が決まり、最終連では〈更地〉に成り果てている。そして最終連はこんな風に締めくくられる。


 誰かのようなしぐさで
 この夜に
 片目をおいてゆく


 この詩を通じて感じるのは疎外感だ。僕にない、僕ではない、誰かのような、など自らを語ろうとすればするほど非・自分の感覚が強く現れる。(詩の中途で片目の猫が登場するのだが)〈片目をおいてゆく〉ことで僕は片目ずつの異なる視点を得ようとしているのだろうか?

一方、私が語り手となる「容れ物」には〈眠ろうとすればするほど/私と、私の身体が/音を立てて乖離してゆく〉とあり、この詩作品全体に生きていることの倦怠感を漂わせつつ、かといって死ぬこともない息苦しい空気がピンと張り詰めている。乖離すること――疎外感に近いものを語り手の私も抱えているように思われる。

また集中には姉と弟、兄が登場する作品もある。
姉が登場するのは「姉。と卵」(語り手・私)と「無能」(語り手・僕)。
そして弟が登場するのは「カインとスカート」(語り手・私)、兄は「ピザとハンバーガー」(語り手・僕)。
「姉。と卵」では〈私たちはみんな姉。の肋骨から産まれた(らしい)〉とある。これは旧約聖書「創世記」にあるアダムの肋骨からイヴが産まれたことを敷設としているのだろう。しかし、この詩では肋骨から何かを産みだすのは男のアダムではなく、女の〈姉。〉である。この姉には卵の形象であり、文章の終わり意味する句点があることにも注目するべきだろう。
「姉。と卵」に対して「カインとスカート」にも「創世記」の人物が援用される。老婆心ながら書き添えれば、カインはアダムとイヴの息子であり、弟のアベルを(神の供物への)嫉妬により殺した――人類で初めての殺人者――人物として登場する。この詩では弟がスカートを履いている場面があり、意図して男女の倒錯が描かれている。
「無能」では姉が語りかけてくるがそれは幻であり全てが〈僕〉自身に他ならないと書かれている。これは読みすぎかも知れないが(しかし誤読を恐れずに記せば)〈無能〉の〈僕〉が掘る穴は殺してしまった弟・アベルを埋める穴ではないかと愚考してしまう。
「ピザとハンバーガー」には重要な詩行が見受けられる。


 僕と兄は、二度と出会えないことになっている。


 この語り手・僕へ対して、死んでしまったアベルの名前を代入して読んでいくと何となく詩の輪郭が見えてくるような気がする。
 以上のように本書には随所に聖書の神話が援用されているが、同時に一辺倒にその神話に寄りかからず作者の手によって見事に再話されており、その手法の巧みさに感嘆する。

僕と私は対照的な存在ではなく、むしろ同値の感覚や思考を携えているように見える。初め二者の語り手は、バニシングツインの双子(双子のうちの片方が妊娠初期の段階で、お腹のなかで亡くなり、子宮から消えたように見える現象)であり、それを描こうとした詩集なのかと考えた。しかし、何度か繰り返し読んでみても「間違いない」という確信には至れない。その他にも共依存と解釈することも可能かも知れない。あるいは自己分裂の感覚で読み進めることもできれば、聖書神話の援用からアダムとイヴ(もしくはカインとアベル)として読める可能性もありうるだろう――どこに焦点を定めればよいのか。最後まではっきりとしなかった。
しかし、定める必要もないのかも知れない。

この二人の語り手が時に融けあうように主体を喪って紡がれているのが表題作の連詩「あるわたしたち」#1~4であろう。この連詩は集中に分散して収められている。
「#1」には〈いまのところ/自分である手首を〉、〈みなれた部屋は/すでに他人事〉とやはり乖離を感じさせる詩行が散見される。また〈読点のない日々を送る〉と書いてあることと前述した〈姉。〉に句点が付されていることも関連事項として見逃せない。
「#2」では〈正しい答えを/少しでも正しくするために〉とあり、自らの正しさを発見するというよりも世界の正しさに組みこまれようとする意志を感じる。
「#3」には〈すべての額縁が脈打って/眩暈を覚える〉とある。定められた規格によって成り立つはずの額縁が歪む――そんな病的にも思えてしまう描写が読者の心を不穏に叩く。
「#4」冒頭の〈いつか/あるところに/跡地は存在しなかった〉という詩行には「片目」の〈教会〉のことを想起させる。かつて教会であった場所の取り壊しが決定し更地となり、果てには跡地としての記録(記憶)すらなくなった場所となる。存在の更新(と呼びたい)は作者にとって切実な問題であると思われる。

 私事を挟ませてもらうが、私も自らの詩には世間からはぐれて、外れて……それでも進んでいくという意思を描くことがままある。つまりは疎外される感覚のことを。
作者の詩には疎外・乖離の問題に加えて、鋭敏に生死観や思想を詩行へと織りこんでゆく。その縫い目から、自らの存在を見つめようとする。そんな詩的営為は厳しいものであろうと推察する。
全体を通じて重たく切々と(文字通り切なく切り裂かれるような思いがする)した感情がこみあげてくる詩集である。作者の差し出す詩の問いかけに私たちはどれだけの回答を自らに与えることができるのか。そうだ、こと芸術(ここでは詩)において読者は作者の故永さんではなく自分自身に回答を与えなければならない。いや、与えることができる。この小さな発見をいただいた詩集に感謝を。
皆様も、「新しい詩の声賞」と併せて、ぜひお読みください。
最後に。小さな返詩を詩集へのお手紙代わりに添えて。



詩「世界がピンと糸を弾けば」

茫漠として或る
僕の物として有る
私という現象が在る

とあるところに
川岸がある
気づけば沿って歩むわたしもある
かつて歩んでいたあなたたちもある
わたしを隔てないで
川べりで手を繋ぐには
「かつて歩んでいたわたしたちもある」
と詩行を紡ぐべき
二枚の鏡を合わせて
過去にも未来にも影を掴ませるなら
わたしは現在形の現象にして
どこにも遍在できる
でもね
けっきょくまやかし
そんなことは分かっている
所詮は
偏在だって
誰もが知っている

鏡のことを考えると
幼少の記憶が蘇る
一人遊びが平気だったわたしは
よく母の手鏡を持ち出して
天井へ向けた
するとほら、
天井を歩ける
家じゅうの天井を歩き回れる
まやかしの遊び
でも本当の……
いつか青空を歩く夢をみて
天井を歩みつづけた記憶
電灯や
部屋の境界にある縁を
慎重に避け
歩いた記憶

気づけば川岸は夕暮れで真っ赤っか
ジーパンが血で滲むと黒くなる
みたいに
夜がやってくる
左にいる兄に話しかけたが
兄はすっかりわたしのなか
右にいる姉に問いかけたが
姉はすっかりわたしのなか
土にいる弟に囁きかけたが
弟はすっかりわたしのなか

もうくる夜もすっかり
わたしのなかにあって
それらがすっかり
なくなったのなら
世界はこともなげ
糸をピンと弾いて
わたしの見知らぬ
対岸へうつりゆく


(文章:遠藤ヒツジ)


前編:ショーンK『「自分力」を鍛える』

『光よりおそい散歩』