第20編

桑原滝弥『詩人失格』

創作の場において「私」をどの程度の陰影で描くのか、という問題が私個人の中にある。これは主人公・語り手の「私」ではなく作者の「私」を指す。私事だけを真実のとおり書こうとすればそれは身辺雑記になるし、すべてを他人の模倣から成り立たせれば私は限りなく薄れる。借り物ではないと思われる私の思想や意見や気持ち、見えない心根を掬いだして読者の理解をはるか越えて理解不能な文章にならない程度に味付けする。

自らをすべて曝け出す作品――というものは果たして可能か。
桑原滝弥さんの自伝詩集『詩人失格』(私誌東京)を読んでから、そんなことを考えた。
桑原さんの四冊目の詩集となる本書は今までに刊行された詩集からも再掲がされた選詩集であるが、なんとなくこの詩集はベスト盤という表現のほうがしっくりくる。
詩集の構成は散文の自伝と自由詩が交互に差し挟まれており、リズムよく読み進めることができる。自伝は彼の出生した1971年から2011年までと、息子が誕生した2016年、山口県へ移住した2021年について書かれている。桑原さんとは私の朗読活動初期である2015年頃から大先輩の詩人として交流があるため、私にとってはそれ以前の桑原さんの背景や活動を口頭だけでなく文章でまとめて読める格好の一冊である。

「第2話 愛を口にするとき」に書かれているように、桑原さんが中学三年生の頃に芸能事務所に履歴書を送って初めて舞台に上がった話にその行動力と自立性に驚愕した。中学三年生の私といえば受験勉強が嫌で現実逃避を繰り返していた。具体的には図書館やツタヤで借りたCDをひたすらMDに焼いてそれに曲名をしっかりと附す、隠れて大量に買ってきた100円の中古漫画本を読み切るなどの素行不良にもならない微妙な行為だ。それでいて高校に落ちてはいけない、という考え無しの義務感にも襲われて程々に勉強をする中途半端な人間だった。

舞台に俳優としてあがった後も、夜遊びをし、女の子と付き合い、パンクバンドを結成し、様々な経験を重ねる。〈バンドの方は順調に壊れていきました。既にパンクは音楽的にも風俗的にも形骸化していた〉ことをしっかりと感じ取り、逆手に取ったパフォーマンスをしていたとの経験は反骨精神のデフォルメとも言えるものだったようだ。桑原さんのパフォーマンスはマイノリティでもマジョリティに向けたものでもないように思われるのは、この辺りにヒントがあるのかも知れない。
桑原さんの詩や朗読を体験すると詩を感じる。それは詩を聴いているのだから当然だ、と言われるかも知れないが、そうではない。
詩の朗読では作者の書いた詩と、そこに秘められた思いや批評精神、声に乗った私性を色濃く感じる。それは魅力的でかけがえのないものだけれど、桑原さんのパフォーマンスには詩だけを感じるのだ。特にライブの現場ではその思いを強くするのだが、ライブが終わると詩の桑原さんではなく、詩人で私人の桑原さんに戻ってしまうので、その境界が曖昧になって分からなくなってしまうのだ。

「第5話 ひとり下手上手」にあるように、桑原さんは詩「えりなのプロフィール」によって詩人として雑誌掲載デビューを果たす(その後、本作は宗左近編『あなたにあいたくて生まれてきた詩』に収載される)。「えりなのプロフィール」はまさに桑原さんの私的性質を読者に読ませる形式で描き出した初期衝動にして核であると思う。短い詩であるため、引用はせずにここでの言及も控える。ぜひ本書を手に取って読んでもらいたい。

「第8話 ただひとつで繋がる」には桑原さんと谷川俊太郎さんとの出会いが戦列に描かれている。詳細は本書に譲るが、谷川俊太郎さんが桑原さんへ〈「がんばってください」ではなく、「がんばりましょう」と〉声をかけた場面が印象的だ。
どちらも似たニュアンスであるし、がんばりましょうや努力しましょう、は小学校のテストの赤点の結果を柔らかいニュアンスで表現して判を押すように一見感じられるが、もちろんそんな意味を含んではいない。
改めて谷川俊太郎さんの言葉の鋭敏さに驚嘆するしかないが、私には「(共に)がんばりましょう」という声が響いてくる。「(一人で)がんばってください」ではなく、関係を保とうとする一言。それでいて親和性だけを押し出さない距離感の一声だったろうし、何よりその点を察知し書き記した桑原さんの感性にも深く感嘆する。

あまり書きすぎて本書を読む感動を失わないようにこの辺で自伝については筆を収めようと思うが、女の子との軽妙な会話や、多くの人と出会っては別れてを繰り返した人生の転機となる結婚のエピソードは、ご伴侶の神田京子さんのご両親へ挨拶に伺ったときのエピソードなど大好きな場面がたくさんある。

印象的な自伝に挟まれた詩も色濃い血を通わせている。力強く優しく、寂しい気持ちが沸々と湧き上がってくる。
孤独に寄り添う詩が大好きだ。昂る感情を高揚させる詩などではなく、昂り刺々しい感情の時にもその棘に触れて血を見せて、その痛みに気づかせてくれるような詩が大好きだ。そして、桑原さんの詩は私にはそんな風に目に映る。
本書収載の「無と無」は私にとってそんな一篇だ。語り手の僕はみんなからいじめを受けて〈”無”をめざす〉ことで痛みもなにも感じないように心と体を閉ざす。語り手の雰囲気や語り口からクラス内のいじめの光景を脳裏に流すのだが、〈みんな〉は恐らく特定の対象ではなくきっと全ての物事を指す。生まれたことを厭うような感覚が読者の心になだれこむ。”無”となった僕は感情を押し殺しているにも関わらず喋っている心に矛盾を感じて、自らの心が流れるように語りだすに身体を任せる。憐憫であり暴力であり憤慨であり憐れである自らの心をすべて吐き出して、ぼくは”無”をめざしたぼくを見出して、すべてが削ぎ落された場所にいる者を〈愛しい〉と感じる。

人は孤独であっても無にはなれない。生前に7つの詩以外は発表をしなかったエミリ・ディキンスンでも家族があり、孤独ではなかった。そして孤独すら一つの存在となってしまう。
桑原さんは多くの親交によってイベントの主催や詩集の刊行を続けてきた人物であることは疑いようもなく、それは人との関係を苦手とする私から見ればきらめくばかりの才能だ。
しかし、彼の詩にはしずかな孤独が潜んでいることが感じられる。孤独な詩は読者の目を通して、読者の孤独にそっと触れて、そのざらざらした表面に少し手を傷つけて「ほら、僕も痛い」とでもいうように語りかける。
そして何より、桑原さんの(特に生で体験する)朗読では、彼が私人であることも詩人であることもかなぐり捨てて、詩自体となっている。この点は本書の解説に三角みづ紀さんが書かれたように〈ひとのかたちをした詩が立っていた〉という指摘に首肯する。
拙い私見によれば、詩には作者・話者・読者(聴者)の関係があり、朗読の場では作者が話者の役割を担って朗読することで関係性が曖昧となり、その軋轢こそが朗読の熱となりうる。その軋轢は一種の媒介であると考えているのだが、この関係性が桑原滝弥さんの朗読にはまったく通じずに砂の城のようにもろく崩れ去る。
隔てるものなく、こんなにも多くの人との交友を保ちながらも、孤独であることを語り、無を目指していることを告白して叩きつける。矛盾は人の常であると言えども、そこに違和を感じる隙も与えないのは、彼が舞台の上では詩人ではなく詩自体であるからだろう。少なくともいまの私の浅学ではこう結論づけるしかない。

桑原滝弥さんからは今でもイベントやお知らせがあるとメールをいただく。返信を忘れる不義理をしたこともあるはずなのだが、それでもメールを送ってくれる。そして多くのメールには「詩続けましょう」と声をかけてくれる。ましょう、という声掛けから桑原さんの朗読人生が始まったように、きっとこの声掛けに思いをつなげている人が私の他にもいるのだと思いながら、小さな詩を残しておきます。

詩「私は一人」

私は一人である
父母から生まれて一人である
五人家族で一人である
三兄弟で一人である
一人のときも一人である
友達と友達をいじめても一人である
喘息で咳きこんで一人である
アトピーかきむしって一人である
眠るとき一人である
映画を観るのも一人である
鼻歌うたうとき一人である
詩を書くとき一人である
詩を読むとき一人である
悔しくて泣くとき一人である
私は一人である
たった一人である
死ぬときたった一人であろう

死ぬときたった一人の死を悼む誰かがいるだろう
ただの一人ではないだろう
私は一人ではない
悔しくて泣くとき手を添える人がいる私は一人ではない
詩を読むとき話者がともにいて私は一人ではない
詩を書くとき過去の私が喧々諤々五月蠅く私は一人ではない
鼻歌うたう隣でハミングする者があって私は一人ではない
映画の背景に多くの人の想いを見て私は一人ではない
眠るとき同じように眠る人の寝息を静かに聞き取るだろう
アトピーの軟膏を塗る人がいて一人ではない
喘息の薬を開発する絶え間ない努力を感じて私は一人ではない
友達をいじめた私を叱る先生がいて私は一人ではない
一人のときも誰かの影を踏んで一人ではない
三人兄弟はライン交換してる程度に一人ではない
五人家族は仲良く一人ではない
父母から愛情注がれて一人ではない
私は一人ではない

一人ではない私は複雑で不格好だ
一人の私は簡素で単調だ
一人ではない私は多くのものを抱えて動けない
一人の私は軽やかにどこかへ飛んでいく根無し草
一人ではない私は孤独に添わない不理解者だ
一人の私は他人の孤独に触れない臆病者だ

そうして互いの私は背中をくっつけて
互いにむっつりしてしまう

けれどくっついた背中は温かくて
そっと中庸の熱が和解の時を伺う


(文章:遠藤ヒツジ)

前編:永井玲衣『水中の哲学者たち』
次編:向坂くじら『とても小さな理解のための』

『光よりおそい散歩』

 


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