世の中にはあまたの人がいるように、読み切れないほどの本がある。
本の体裁をもたない文章ならもっと。
名著と呼ばれているものだけを選別しても読み切ることは難しいだろうし、情報過多の昨今、取捨選択は必須ともいわれる。
余談だが、この連載を依頼してくれたauly mosquito主催の笹谷創さんが「いま持っているCDを深く聴きこむ」という話を以前していた。その話を聞いて(取捨選択が広く迫られる中で)アーティストととしての彼の音楽への関わり方は誠実だと感じた。
サブスクリプションは膨大な音楽に早期アクセスを可能にし、かつ収益もきちんと反映される素晴らしいシステムだ。そうであると同時に「どこから手を付ければよいか分からない」という途方もなさ・希薄さを個人的に痛感することもある。
私が中高生の頃は、MDプレイヤーが主流で最大360分程度の音楽を詰め込んで学校に通った。
この思い出だって、時代が遡れば「俺は60分のカセットテープだ」とか「レコードは持ち運びなんてできなかった」となるわけで。つまりは、その時代時代に音楽のみならず様々な表現や受容の方法がアップデートされていく。だから、その時代の自分ときちんと向き合い、自分にフィットしたものを選んでいくのが最善だ。
最新のアップデートはメリットばかりを含むわけではない。
閑話休題。本題へ移ろう。
読み切れない本の中にも、ふと出会ってしまう本がある。
同じく連載を持つ伊藤晋毅さんにオススメされた小明さんの『アイドル墜落日記』(洋泉社・2009年)は非常に面白かったが、自分が仮に書店を物色したとしても決して食指が動かなかったことと思う。念のため書き添えるが否定的な意味ではなく書店のタレント本コーナーに立ち寄る習慣そのものがないのだ。
またこの原稿を書いている日にNHKニュースで特集されていた竹倉史人さんの『土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎』(晶文社・2021)も、そのニュースを見ていなければ知ることもなかったと思う。
本にもこんな風に出会いがあって、ボルヘスの「バベルの図書館」のような包括的なものに頼ることができない故にこの出会いをいかに楽しめるかが日々の鍵と糧となってくると思う。
前置きが長すぎるが、やっとご紹介する本について。
今回は同様に本サイトで連載をもつllasushiさんから「ぜひコラムで扱ってほしい本がある」と依頼を受け、送っていただいた。熱烈な原稿用紙4枚のお手紙とともに。
まずは本をお送りいただいたことに感謝を。
どんな本かは写真を載せているのでお分かりのことと思うが、ショーンKさんの『「自分力」を鍛える』(あさ出版・2008)だ。
多くの方の記憶に新しいことと思うが彼は2016年3月に週刊文春において経歴詐称を報じられ、自身のラジオで正式に謝罪を行ない、テレビ・ラジオなどのメディア出演から一線を引いた。
詳細は分かりかねるが、現在でも活躍・活動はされており、この件自体は片のついたことである。今更私がどうこういうこともないので、あくまで本書の内容について語っていこうと思う。
そもそも私は何か人の悪い部分(悪かった部分)を糾弾できるような言葉も持っていないし、英語が堪能で、多くの企業トップを紹介し、レギュラー番組を15年務めた実績は間違いないものだろう。
しかし、その番組や活動を見てこなかった私にはその頃の彼の活動については軽々に発言できない。
なので、本書について。
この本の冒頭には、私が初めに書いたようなことが記されている。一部引用する。
< 世界に誇る日本の情報通信技術の劇的な進化を背景に、時や場所を選ばず、誰もがさまざまな情報をリアルタイムに、かつ低コスト、あるいは無償で入手できるようになりました >
作者はそんな状況を<便利>ではなく<不便>だと言う。情報過多の中で優先されて提示される情報や、マスメディアで大々的に喧伝されることがあたかも正しいことのように妄信してしまうことに警鐘を鳴らしている。
そして、妄信することなく自らの物差しをもって判断することを彼は<自分力>と表現した。
<自分力>を鍛えていくことこそが情報過多の時代を生き抜く術だと語る。
私も彼の意見に同感することがある。
本書出版当時(2008年)にはサブスクリプションはなかったが、たとえばAmazonの無料即日配送はクロネコヤマトや佐川急便を中心に安定したサービスが提供されていた頃だし、音楽や映像なども2007年頃からYoutubeなどの日本語版普及により無料で触れられる機会が増えていた時期だ。
2021年現在の私の目線から語ると、音楽や映画のサブスクリプションは便利に用いる一方で不便さも感じる。ストリーミング再生であるために個人的所有ができないことや、作品が多すぎてどこから手をつけていいか分からない感覚が拭えないこと。かつての音楽編集ソフトのようにジャンルやアーティスト情報を気軽にカスタマイズできない、音楽でいえばアルバム単位でなく楽曲単位で聞く流れが強くなってきた感覚(あくまで感覚)がすること――。
それら私の感じる不便さの一切は、別の人に言わせれば便利なことであるかも知れない。
彼と私の視座はまったく異なるかもしれないが、彼は不便さから逃れるための<妄信>をやめようとする。
では彼のいう<自分力>はどのように鍛えることができるのか――。
それについては色んなことが書かれている。
一部要約して抜粋をすれば「近道はない」、「しぶとくやれ」、「ストレスから過剰に逃げるな」、「アウトプットが大事」――などなど。他にも経済学の用語や実績データなどを元に様々な挿話を差し挟みながら、<自分力>に迫っていく……と書きたいのだが、私は<自分力>の本質を掴み損ねてしまった感じがある。
もちろん彼は本書を読めば必ず成功するだとか、これで絶対に自分力が鍛えられるという誇張した宣伝文句を用いていない。だから、そこをマイナス評価にすることは難しいのだが、欲を言えばもっと自分の経験・体験から綴られた文章を読みたかった。
この本は202ページある。その中で彼自身の体験談が書かれている箇所はざっと6ヶ所程度しかない。体験談も「ラジオの時間感覚について」、「お酒での失敗」、「上司への憧れ」などが5行程度さらっと語られて、すぐに地の文章というか語り手としての自分に戻ってしまう。
私は<自分力>を鍛えるために活動してきたショーンKさん自身の体験的肉声が読んでみたかった。
自身の体験が書かれていない本からどのように個人的な私はを見出していくのか――私にとって本書へ問いかけたい疑問はそこに尽きる。
しかし、間違ったことは書かれていないし、勉強になった点もある。
149ページの中見出し「合意を得るための2つのアプローチ」は非常に興味深く読んだ。
カーネギーベストを読んでいた時の感覚に似ている。
<相手を理解させるためには、ふたつのアプローチが必要だということです。(中略)ひとつは「論理的理解」、もうひとつは「心理的理解」です。/前者は論理的に考えて正しいか正しくないかという理解。後者は、感情的に受け入れられるかどうかという、いわば「心の理解」です>
私はこの「心理的理解」のことを納得と呼びたい。
漫画家・荒木飛呂彦先生の名作『ジョジョの奇妙な冒険』第七部『スティール・ボール・ラン』の登場人物ジャイロ・ツェペリはネアポリス王国の法務官である父と、とある少年の処刑について対立する。そしてジャイロはこう叫ぶ。とても印象的な場面だ。
<オレは国王から命ぜられる この任務を我が心の『誇り』としたい!>
<有罪か無罪か! 「納得」は必要だッ! 『納得』は『誇り』なんだ!>
納得ということはとても大切だ。
上から押し付けられ、下からもてはやされて行なうことだけではやがて自らを失ってしまう。
しかし上も下も横も縦も、それらの関係を失えば、自らとの距離を測る物差しすら意味をなさなくなってしまう。
<自分力>という言葉を私は使わないだろうが、関係の距離を考えるための読書になったことには感謝したい。
2008年当時と今では著者であるショーンKさんへの見方も異なってしまうことは否めないが、もし思わぬ出会いがあれば本書を読む機会は今読んでくださっている皆さんの元にもやってくることと思う。
最後にいつも通り、返詩を。
正直言えばこういった類の本に詩を書くのは初めてだが、何事も経験だと思う。
詩「自分」
思えば自分は不思議なことば
自らを分けるとは、これ如何に
自らを分け与えるのか
自ら分かたれるのか
詩人らしくもなく
ネット辞書で軽々に調べてみれば
「自らの本分」
つまりは自らの力量を指すことばであったらしい
知っているものと思いこみ
使い倒してきた自分ということば
それにも見ていない側面はあるもので
日々の発見は思わぬところに潜んでいる
しかし語源だけが
正解とは言えない
私たちの生まれた瞬間だけが
正しいとは言えないように
正しさの中に疑う心を抱えたら
それは私の、もしくはあなたの
心の納得がない証左
日々の取捨選択を自ら切り分けて突き進んでゆく
納得こそ心の水差しだと書いてみる今日
を疑う未来の自分がいてもいい
論理こそ社会の物差しだと書いてみる今
を疑う遠い眼差しだってあっていい
自らを切り分け
自ずと人と分け与えあう
関係の中に己を見出す
思えば自分は不思議なものだ
(文章:遠藤ヒツジ)
前編:中原中也「骨」
次編:故永しほる『あるわたしたち』