宮沢賢治「雨ニモマケズ」・遠藤ヒツジ「表現は加害する」
酷暑にそもそも出来の悪いアタマが一層バグを起こしたようで、なかなか原稿が進まない一か月だった。この連載も月イチで継続したい思いがありながら、今回は遅れての掲載になってしまった。読者の皆様と、主宰の笹谷創さんには深くお詫び申し上げたい。
いきなり宣伝になってしまい恐縮だが、今回の連載に深く関連することなのでご紹介させてもらおう。
詩人の佐相憲一さんが代表となり私も末席ながら参加している詩誌『指名手配』という同人誌がある。その第2号に私は「表現は加害する」というエッセイを掲載した。
令和2年6月に自民党が「インターネット上の誹謗中傷・人権侵害の更なる対策に向けて」の提言を発表したことに触れて、自らの態度を見つめ直す機会になった小さいエッセイだ。
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この原稿を書いた時から1年余りが経ち、オリンピックを契機にして、また表現について考える機会が訪れた。
2021年7月23日開幕の東京オリンピックにおいて、同月19日に開会式の楽曲担当である小山田圭吾氏が過去のいじめ問題で辞任。同月20日には絵本作家ののぶみ氏が「東京2020 NIPPONフェスティバル」への参加を辞退。同月21日には小林賢太郎氏が過去に「ユダヤ人大量虐殺」を揶揄するコントを作ったことに関連して解任された。様々な理由での解任・辞任には、賛否が激しく分かれるオリンピック開催に更なる火種が投げ込まれたような印象があった。
はじめに断っておくが、私は上記の3名に何かを言いたいわけではない。もちろん、思うことはある。問われれば拙い意見を何とか語れると思う。でも、私はそういうことを書きたいのではない。あくまで、彼らや彼らの過去・そして様々に飛び交う意見を通じて、私自身のことを振り返って考えたい。
先述したエッセイ「表現は加害する」の中で私は自分のことを〈茨だらけの身体〉と表現した。たとえ優しく人を傷つけないように接したとしても誰かを傷つける場合があることを自覚するべきだ、という自戒を込めた表現だったと記憶している。私の態度を優しさと見るか臆病と見るかは判断しづらいがこのような理想を描いた有名な作品がある。教科書で誰もが触れたであろう宮沢賢治の「雨ニモマケズ」。全文を引用する。
〔雨ニモマケズ〕
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
「雨ニモマケズ」は詩と見做されているが、実際はメモ帳に載っていた草稿である。この作品はまさに生活する人間としての祈りの言葉だと私は読んでいる。
私はクリスチャンホームと呼ばれるバプテスト派のキリスト教信者である家庭に生まれ育った。今ではキリスト教会に通うことはないけれど、私も10歳の時に受洗している。クリスチャンホームである我が家では決まって食前の祈りを捧げる。朝食には多くの信者が諳んじる「主の祈り」を、昼食には個々人で黙祷を捧げ、夕食には家族の誰かが一日の感謝を捧げる。たとえば、いま原稿を書いている2021年8月6日の夕食のときに私が祈りを捧げるならば恐らくこんな風になるはずだ。
天にいらっしゃる父なる神様
今日もあなたに見守られ一日を終えることができました
暑さの厳しい日でしたが社員一同
無事に仕事を終えて帰途に着けたことを感謝いたします
また別のところで働く弟の日々もあなたが見守ってください
埼玉のおばあちゃんがワクチン接種を終えました
コロナが蔓延する中でも健康に過ごすことができますように
また今小田急線内で事件が起きているようです
私には祈ることしかできませんが
どうか騒ぎが一刻も早く収束し
死傷者が一人でも少ないことを願っております
あなたが見守り人々を支えてください
そして広島に原爆が投下されて76年が経ちました
日々に忙しく大切なことを忘れてしまう弱い私達ですが
どうか大切なことを取りこぼさず
一つ一つの歴史に振り返る時間をあなたがお与えください
今日も家族で食事のときを持てることを感謝して
このお祈りをイエス様のお名前によって
お捧げいたします
アーメン
大きな思想をもった宮沢賢治の言葉と比べることのおこがましさを感じつつ、並べてみるとやはり私には「雨ニモマケズ」が祈りに思えてくる。作品の最後に続く法華経の文言は私の祈りにあるアーメンに通じる。アーメンという言葉を聞いたことのある方は多くいると思う。アーメンには「いま申し上げたことは誠であり、この願いがそうでありますように」という意味合いを含んでいる。つまり祈りに嘘偽りのないことを述べる。そのため、祈る者は虚勢を張らず、強がらず、ひざまずき弱さを告白する人が多くある。信仰に寄りかかるのは、弱さを認めている強い人だけだと私は感じる。
宮沢賢治も虚勢を張ることはない。〈雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/慾ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル〉とあるが、これは虚勢でなく自らの目指す姿である。
そして〈ヒドリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ/ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ/ワタシハナリタイ〉と涙すること、デクノボーと呼ばれることの弱さを告白する。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は上述したとおり草稿であり誰にも見せることを想定しなかった言葉だ。そして私の祈りも家族と神様にだけ聞かせる言葉だ。でも、これが多くの人の目に触れれば、反応は様々だ。肯定的に読んでくださるかたが多くいることを信じるなかで、「偽善的だ」と思う人もあるだろう。また「そんな生き方などできない」と自分を責めてしまう人もあるかも知れない。行き過ぎた想像のことだ。でも深く遠く誰も見ないような場所までの想像がなければ、私達の表現には一体なんの意味があるだろう。
私達の言葉、いや、すべての行ないに棘は生えている。
この棘を自覚するか否かで表現が変質すると私は愚かにも信じている。
自らの祈りを書き起こしたのは初めてだ。それでもう詩を書いたような気になってしまったが、今回は自らの書いたエッセイ「表現は加害する」と宮沢賢治の草稿「雨ニモマケズ」に心ばかりのお返詩を書き記そうと思う。
(clap your hands say yeahの優しさに満ちた青春の一曲「Upon This Tidal Wave of Young Blood」を聴きながら)
詩「針と糸」
ふと手を見ると
人さし指に
うすくてちいさな
和毛が刺さってる
こんなに細く
やらかいお前も
皮膚に潜ろうとするのか
そっと摘まんだが痛くはないか?
やさしい曲を流しつつ
涼しい部屋で独り
冷コー飲みつつ詩を書く真夏時
苛烈な道を歩み
人々の幸福を願い
影伸ばし言葉書きつけるデクノボー
針の穴へ糸を通すとき
糸は柔軟に向こう側を目指し
針は糸を固い意志で受け入れる
自らの弱さを受け入れるように
針ト糸タガイヲミトメ心ヘモグル
刺スタメデナク縫イアワスタメ
(文章:遠藤ヒツジ)
前編:故永しほる『あるわたしたち』
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