第14編

ユタカB「詩篇5つ」


~はじめに~

2022年初の連載となる。今年も皆さんに詩の魅力を少しでもお伝えできればと思う。楽しくやっていこう。
私の大学時代の恩師が定年を迎え、今年度をもって大学を離れることとなった。大学では論文執筆のために何度も根気強く指導をしてくださり、大学卒業後も詩の同人にお誘いいただいた。彼がいなければ今の自分はないと感じている。長い間、講義を通じて学生たちへ詩の魅力を伝えてこられた素晴らしい功績に対して、この場で小さな拍手を送ります。
私は大学生の頃、恩師が受け持つ近現代詩のゼミナールに所属していて、その時の経験が今、存分に活きている。卒業論文では吉増剛造さんを主題とした「憑依の詩人――吉増剛造論」を執筆した。いま読むと拙い詩論だけれど、迸る熱量は今の私では得難いもので、かけがえのないものだ。今でも宝物のように書棚に並んでいる。
今回は憑依という鍵言葉を頭の片隅にいれながら、朗読詩人として活躍を続けるユタカBさんの詩を扱っていこうと思う。

ユタカBさんとは実際には1度も出会っておらず、交流はいつもオンラインを通して。2019年12月から流行化した新型コロナウイルス感染症の影響で2020年3月頃に初の緊急事態宣言が発出されたのは記憶に新しい。その状況を受けて胎動レーベルのikomaさんが始めたプロジェクトが「MIDNIGHT POETS」である。このイベントはツイキャス上で音声を通して、行なわれたオープンマイクイベント。初回は2020年5月10日。深夜から始まり、終了時間は設けず、エントリー希望がいる限り開催し続けるという企画。普段のクラブハウスやライブハウスでは実現の難しい企画だ。困難に挫けず、視点を変えてやってのけるikomaさんの慧眼は驚くべきものだ。私はと言えば、シジン6人で「シジンサロン」というオンライン動画配信番組のメンバーとして参加して、ただただぼんやりしていた。
いつからかは定かではないが、ユタカさんとはコロナウイルスの流行にポエトリー・リーディング文化が負けないようにみんなでオンライン化を進めていった――そんな時期に出会った。
ユタカさんは朗読を主としており、詩をどこかにまとめて公開している様子はないのだが、今回特別に5編の貴重なテキストをいただいた。
前置きがいつも長くなっているが、この5編を中心にユタカさんの詩の魅力をお伝えできればと思う。まずはいただいた詩の題名と私的解釈を添える。


※今回取り上げるユタカBさんの詩は『こちら』より閲覧/ダウンロード可能です

~各作品を読む~

・逃げ出した囚人二二三五号
このタイトルに見覚えがあったのは、私が昨年行なった即興朗読の配信ライブ「増幅」の即興お題として「囚人二二三五号」をいただいた想い出があるからだ。その時の即興朗読やこの連載で扱った詩の言葉などを取り入れつつ、逃げ出した囚人と詩人の関係を鮮やかに映しだしている。
私見において、逃げ出した囚人は漠然としたイメージから具体化し脳髄から可視・可聴化される詩(という形)へ成ろうとする。そんな【詩以前】の不定形に見えてくる。逃げ出した囚人を詩人は見えるように聴こえるようにするために、その姿を、足跡をスケッチする。囚人の感覚のすべてを感知しようと試みる。
逃げた囚人と出会った詩人は〈(会話を交わす 霞む囚人の名前/(消えかかった囚人の身体/(向こう側が透けて見える〉
囚人が消えかかるのはネガティブな意味ではないのだろう。一度逃走を試みた囚人の身体は詩人の手によって掴まえられて、【詩以前】から【詩】へ成る。本当にネガティブで不幸なことは囚人の行方を探し出せないときであろう。
囚人が消えることは詩人との統合を示す。

(詩人の名前は二二三五号
(失った言葉を探し
(今日も夢を見る


詩を作り出す奔放なイメージはその自由さゆえに脱獄囚のように逃げ出してしまう。そのイメージを掴まえることを詩にした作品だと読んだ。


・ナタルクのシロイホネ
「逃げ出した囚人二二三五号」には1000年の旅をする王女の亡骸というイメージが出てくる。深い地層・歴史から言葉を湧き水のように湧出させようとする印象を受けるが、この作品も深い歴史について書かれた詩だ。
この詩を読むまで私は知らなかった記事なのだが、ここにまずリンクを貼る。

記事【1万年前の人骨に「集団虐殺」の痕跡、研究で解明


集団虐殺と目される痕跡が発見された記事に触発されてユタカさんの書き上げた叙事詩は、歴史の報告に留まらず確かな詩情を湛えている。冒頭で、風がバターナイフのようにして大地を削り取るという描写が素晴らしい。シュルレアリスム的なイメージだが不条理な印象は受けない。(宮沢賢治も得意とした)風景の食化、は歴史を積み重ねた大地(人骨の埋められていた土)を食べることで現代の日本から1万年前のケニアへストンと読者を落とす。
27名の集団虐殺が如何なる理由で(子供までも含めて)行なわれてしまったか、知る由はない。しかし想像はできる。ユタカさんは想像において27名の声・言葉に注視しようとする。ユタカさんが27名の死者が語っていた〈シロイコトバ〉に思いを寄せる時、そこで行なわれた虐殺の憎悪を現在に重ねて戦争への糾弾につなげる。
ユタカさんも私もコトバのパフォーマンスで競う【スラム】に出場するパフォーマーでもある。そこには勝負があり飛び上がるように嬉しい心や歯ぎしりするほどの悔しい心もある。勝負事であるから当然だ。しかし、そこには憎悪や個人的な攻撃性・嫌悪は持ち込まれるべきではない。特権のようなものも、存在しないと信じたい。スラムの本質は勝ち負けではないと信じている私だが、ユタカさんの詩の心はどうだろう。スラムは遊戯であり、戦争ではない。戦争では決してない。
私ならば〈シロイコトバ〉にそう返したい。


・明けない夜はない
戯曲『マクベス』の一節にある名台詞。東日本大震災で被災し、礫となってしまった言葉の一つ一つをツイートに託した和合亮一さんが引用したことも日本人の多くの方々の胸に刻まれていることだろう。二重否定により悪いことばかりは続かないという意、をもつ格言の意味をユタカさんは崩すようにして詩に展開させる。
詩の中に言葉遊びを散りばめ、リズムを作りながら、方向性はどちらかといえばネガティブで「夜は明けてしまう」という諦念の響きも感じる。かといって、なにか死を連想させたり、過剰に政治を批判したり世情を悲観したりするわけでもない。ちょっとの気分を緩やかな波として日常を切り取っている。そうそうこういう感じ、というのが私としてはすごく分かるというか、平熱の状態で世の中について思うとか、いやなことを思ったり感じたりしても、次の瞬間には別のフェーズへ心が移行することがあるというか――とにかくわかる。
その印象は最後に現れる革命のような詩行を読んでもなお変わらない。この辺りは私の感性というか読む方によってがらりと印象が変わるところかもしれない。
詩や言葉は断言をもって力強く扇動することができる。時には必要で、時には危険なことだ。そこを見極められる詩人になれたらよいが、私はどちらかといえば、平熱をもって好悪の感情を示すこのユタカさんの詩に惹かれる。


・gift
夜が明けてしまうことがなんとなく嫌だなと思う日もあれば、日常のシチューを美味しいと言えそうな(でも言えなかった)日もある。

なんだか変だ。
シチューが美味しい。
(変じゃない

この詩も何となく分かる、という気持ちが強く残る。そして家族の小景が垣間見える素晴らしい一編だ。〈何も変じゃない日常〉なのに〈なんだか変だ〉と感じる。
普段通りであればシチューを食べて、最後にご馳走様を言うに留まるなかで、変に〈このシチュー美味しい〉と言えそうな瞬間を見事に捉えている。心の機微は「明けない夜はない」みたいになったり「gift」みたいになったり日々様々で、しかし、感情の昂りは激しさばかりではない。
〈毛布に包まれて、/君とイチャイチャしたい。〉〈ベランダの隙間から差し込む光は、/何処かでキスをした残り香。〉〈二人の心音だけが響いて。〉など甘い記憶が去来して普段ではない優しい言葉を一言加えられそうな日、を巧みに描いている。られそうな、という淡い感覚がユタカさんの詩人としての慧眼であると思う。


・Assembly yellowtail poetry(鰤の詩の集合体
「gift」で昂り、と書いたが最後は鰤の詩。鰤を英語ではyellowtailと呼ぶことを恥ずかしながら初めて知った。出世魚の成魚である鰤は最も脂がのっている。詩に出会ったご自身を鰤の姿に投影しているのだろう。


~全体を通して~

朗読の場を2年近い間、たくさん経験したユタカさんの作品に触れるうち、少しずつ見えてきた特徴があるので列挙してみよう。

・オレンジの情景

〈空がオレンジ色のガッシュと夜の闇の〉(逃げ出した囚人二二三五号)
〈オレンジ色の髪の毛。〉(gift)
〈オレンジとコバルトブルーが/空をせめぎ合いながら〉(Assembly yellowtail poetry(鰤の詩の集合体)

もちろん、他にも様々な色のイメージは湧いてくるのだが、中でもオレンジの描写に惹かれるものを感じた。


・片括弧
()を閉じずに片方だけで表現する片括弧は現代詩では時折用いられる。
片括弧をどこまで意識しているか不明だが、括弧は内面の吐露であったり注釈を用いたりする時に使われる印象がある。その片方を外すという行為は他のテキストと()内のテキストに明確な差異を持たせず、融けるように接続させる印象がある。
片括弧を私は今ではあまり使わない。以前先輩詩人に「現代詩でありふれた表現で無暗に使わない方がいい」とアドバイスをもらったことがある。その時は先輩詩人の指摘の通り、何も考えずに使っていたので反省して、作品を見直したことがある。
しかし、意識して説明できるならば、自信をもって用いた方がいい。今の私の拙い見識では片括弧は以下のような意味を含んでいる。
◎地のテキストと括弧内のテキストがシームレスに繋げるための用法
◎近代に衰退したシロテンに似た半終止符の役割を担う
また、北海道の詩人・番場早苗さんは自らの片括弧を貝に見立てて、片割れを探しているというような趣旨を語っていたことがあり、印象的であった。ユタカさんはどのような考えで使われているのかお会いできるときに聞いてみたい。


・言葉遊び
ユタカさんの言葉遊びはいい酒のあてみたいに小鉢で色々と出てくる。朗読を聞いた方なら首肯すると思うが、関西の訛りが加わり、いい塩梅の響きに仕上がる。

〈お惣菜が相殺される〉
〈ドラッグストアに並ぶ/ドラァグクイーン〉
〈ズルズルと引き摺りながら/ずるむけの心の傷につける〉
〈今日も夜な夜な大宴会/「そんなんでええんかい」〉
〈墓の下からzombie達が現れる/ボンビーな僕の懐〉(以上、「明けない夜はない」)


また「Assembly yellowtail poetry(鰤の詩の集合体」には〈ぶり〉に関わる言葉のオンパレードで朗読に抑揚を与える。
ギャグでもあり、詩のリズムを聴者の耳に定着させるための楔のような言葉たち。


~総括~

私は常々、詩人とは媒介(チャネリング)であって、通過点であると思っている。詩人は憑依し、その物自体・事自体の内面に憑依することで、在るものの見えない面を照射する装置――それが詩であると。だから私たちは朗読するとき(今の個から今の場)へ向かっているように見えるが、実際は(今までの場を抱えた今の個から今の場)へ向かって朗読しているのだ。
だから詩は孤独であって、孤独でない。過去の経験や記事で見聞きしたこと、自らの見えづらい部分までも曝け出す不思議な照射装置。その装置をもって、可視化・可聴化できる(今の個)の段階にまで引き上げ、一気呵成に、あるいは淡々と(今の場)に解き放つ。
ユタカさんは「Assembly yellowtail poetry(鰤の詩の集合体」の終盤でこう語る。

僕は僕が誰だか分からないまま
今日を生きる
沢山の人々と出会い
詩を書くことを教わり
何十年も前の記憶
詩人と出会いながら
何もしてこなかった僕は
今此処にいる
ふと出会ったのも詩人だった
詩が何かも分からずに
詩を書いている僕が誰でも構わない
僕は僕という存在であり
今詩であろうものを書いて生きている
僕が詩人かどうかではなく
僕は詩を書いている
ただそれだけだ


詩とは何か。それを定義しようとする運動がある。正しい。定義をせずにおおらかに詩を抱きとめる人もある。それも正しい。詩が何か分かった気分で意気揚々と書くのも正しい。同時に詩とはなにかを問い続ける途上の人だって等しく正しく在る。
個の存在が「これは詩なのか?」と自問自答を続けていること。そして、その問いを明確な答えなど求めずに、場へ解き放つこと。私はその正しさを信じている。甘えや思考放棄と言われても私個人はそんな心の開き方で人々の声に詩に全身を傾けたい。
〈僕は詩を書いている〉
それだけが本当に真実だ。

ユタカさんの詩は声にのって、その魅力をさらに増すものと思われる。みなさま、ぜひ彼の声と詩の響きを耳にしてみてください。今回、貴重なテキストを身勝手な解釈をさせていただいた感謝とともに、拙くも愛ある詩を送りたい。


詩「だんだら」

だんだらだらとぷぉぷぉ日々過ぎて
だんだら坂に日ぃが滑る
(サグい探り
(探求手繰り
(眼球足りん
(宇宙覗くに
(眼球足りん
(サグいディグり
(ディグダグアウトで
散る。会うと
また会いたくなるから
会わね
またね

近頃味噌汁の底に麹が残らないな、と俺が
ぼそっと言えば
近頃はこし味噌を使っているから、
と妻がきゅうりの糠漬けをポリポリする
ふうん、という相槌は
味噌汁を啜る音に掻き消えた

だんだら坂をぷぉぷぉ日ぃが滑る
子供らだって滑るよう ダダダ駆け降りる
俺もこんな風にダダとくダれたら
日々の巡りも血の巡りも
良いだろうに
(どこかでレコード回し
(おばあは糠味噌回し
(若手実業家は金策回り
((コスパ考える奴より応援できるけど)
(火の用心は今夜も見回り
((ご苦労さんです)
気づけば周りの景色
ずいぶん彩度落とし
まるで俺の好きな写真の世界

今日は鰤のお刺身があるから、
という言葉の影に
寄り道しないで帰ってきなさい、
という言葉が潜んでいる
しばらくぶりの鰤、
言われなくともまっすぐ
家に帰ろう
鰤氏、やあ、しばらくぶり
言葉遊びを言いたくなって
きっと妻の前で口がふにゃと歪んでしまう

夕暮、写真の色に近づく現実
だんだら坂を日ぃが照らす
「だんだらの日ぃ、足伸びて影んなった」
初めて妻とこの坂を上った日
すれ違った少年 母へ語るうきうきした声
(サグい日々手探り
(気づけばすっかりチルアウト
散る。会うと
寂しくなるから
顔半分にしてまたね
会おうね
どこか遠くで誰かの演説

夜。鰤食べながら
「だんだら坂の日ぃ、足出してた」
と妻にいった。ら
鰤に足 生えてきて
囚人みたいに逃げ出そうとするもんで
慌ててハシで抓んで山葵醬油どぶどぶで
飯にのせて平らげる
(つま食べてる妻の爪みる
言葉遊び、言いたくなって
歯が子供みたいにうずうずする

深夜、パソコンは眼鏡に反射して元気
ネット徘徊、いや。
気づけば人の声を求め
言葉遊びするまだ見ぬ人々
出会いに行く意義ある散歩。

だんだら坂は寝静まる
日ぃが足生やして
火の用心の行列にぷぉぷぉついていく


(文章:遠藤ヒツジ)

前編:遠藤ヒツジ「椿と雪」
次編:北村透谷「思想の聖殿」

『光よりおそい散歩』

 


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