第13編

遠藤ヒツジ「椿と雪」

気づけば12月24日。連載原稿をまた落としてしまいそうになり、いま慌ててのタイピング。今月はじっくり本を読む時間が中々とれず、連載のネタがない状態で、どうしようか悩んでいるうちに、クリスマスイブになってしまった。
(現在、麻耶雄嵩さんのミステリ『夏と冬の奏鳴曲(新装版)』を読書中。200頁を越えて未だに殺人事件が起こらない。終わったら業務の関係で必要な真部賀津郎さんの『すごい就業規則!』を読む予定)
自らを切り売りする思いで、今回は自作品について解題というか解体をしてみようと思う。まずは全文を。


詩「椿と雪」

椿の花が雪を燃やすころ
かつて登校した小学校の傍を通った
曇り空をひっかく有刺鉄線の向こうに
苔の浮いた水を湛えたプールがある
私の若き心はついえた、と耳をくすぐるように
内声が皮膚と骨の間隙を走った

目を洗うことが苦手であった
半身浸かる消毒も苦手であった
大きな水へ潜ると時折
苦しみを忘れて潜っていられる
形容しがたい瞬間があって
私は永遠を怖れて苦しいふりで空気を求める

小学校を行きすぎて
椿の花が雪を食らうころ
歩行を寄る辺として痛みの方向を探る
スマートフォンの映しだすSNS
巧みに明確に粗暴に愚かに
世界へ膨大の声を走らせる

苦しいふりをして
世界と距離をとる
そうでなければ
痛みの(見え)ない声に
耳から目から心が凍り
根腐れするだろう

痛みの(見え)ない場所から
痛みを与えることをやめろ
若き心はついえて、こんな場所に――
そう嘆息して、足元見れば
椿の花は雪の重さに
首を落としている


詩の出来不出来は読者の皆様に委ねるとして。
この作品は第33回文学フリマ東京において、詩人の渡辺八畳さんが企画した合同作品集『3日で書け!』に寄稿したものです。この企画は文学フリマ東京本番3日前にお題を発表し、各自がそのお題で3日間を〆切として作品を書くという何とも慌ただしい企画。お題は「痛くない」だった。

お題をもらって何かを書こうとするとき、高校で受けた美術の授業風景を思い出すことがある。その授業では3つの要素を用いたアクリル画が課題となっていた。20人程度の生徒の作品を並べて似通った構図やイメージの作品を指摘して教師は「少人数の制作においてイメージの重複は想像力の普遍さを示します。自らにしか描けないモチーフや構図を獲得してください」というようなことを語っていた。例えば、「人」と「鳥」と「青空」が要素で「人の手から青空から大きくはばたく鳥」のイメージなどは多くの人の普遍的な心に訴えかけるかもしれないが、そこに画力や技術的な力が加わらなければ個性を出すことが難しいといった感じだろうか。
その教えを胸にまずは「痛くない」を想起させるタイトルは避けた。私は詩の場合は最後にタイトルをつけることが多いが「椿と雪」を主題としてそれを観察する話者は限りなく透明になるように配慮した。話者の抒情は当然挿入されるがあくまで描きたいのは椿と雪の関係性だ。
また作品自体、はじめは「痛くない」と強がる場面から本当は「痛みがあることを我慢する」というような展開にしようと考えたが、結局は「加害する側が痛みを負わない場所から痛みを与えることを諫める」作品となった。作者である私自身はそんなことを偉そうに言える立場ではないから、詩自体あるいは詩の話者やモチーフにその意見を仮託する。そのことが重要だと感じた。
連ごとに分けて読んでいこう。


椿の花が雪を燃やすころ
かつて登校した小学校の傍を通った
曇り空をひっかく有刺鉄線の向こうに
苔の浮いた水を湛えたプールがある
私の若き心はついえた、と耳をくすぐるように
内声が皮膚と骨の間隙を走った


観察でなく私のイメージで書いてしまった弱点はあるものの、椿の花にひとひらの雪が落ちた時、その姿を変容するのは雪の方であるだろう。溶けて水滴となりやがて椿に飲み込まれるか土に落ちてしまう。個対個である場合、その立場や質量によって変容する側が決定する。
こういった問題に直面することは心が青年期を過ぎようとする証左であり、小学校や若き時を過ぎた寂寞を感じながら、時の流れの無情を有刺鉄線や苔の浮いたプールによって描こうとする。
終行において「内声」を走らせることで2連目の過去の記憶へ視点を移行させる。


目を洗うことが苦手であった
半身浸かる消毒も苦手であった
大きな水へ潜ると時折
苦しみを忘れて潜っていられる
形容しがたい瞬間があって
私は永遠を怖れて苦しいふりで空気を求める


椿と雪のモチーフを離れて過去の体験を描いてみる。時間が狂ったような感覚はかつて本当に経験したことだ。永遠に潜っていられる――時間が化物じみて手招きするのを逃れたことを思い出している。苦しみを忘れる、というモチーフをここで提示しておく。空気を求めて、過去から現在へ視点を移行させて3連目に向かう。


小学校を行きすぎて
椿の花が雪を食らうころ
歩行を寄る辺として痛みの方向を探る
スマートフォンの映しだすSNS
巧みに明確に粗暴に愚かに
世界へ膨大の声を走らせる


追憶は小学校の傍を過ぎると霧消してしまい、また椿と雪のモチーフが顔を覗かせる。1連の解説で記したように椿が雪を溶かして栄養とする描写を挿入している。そしてそのイメージはSNSへ投影される。様々な喜怒哀楽の声が走っている。その言葉ひとつひとつが衝突してしまった時、変容するのはどちらか。そんなことを曖昧に思っていたのだろう。


苦しいふりをして
世界と距離をとる
そうでなければ
痛みの(見え)ない声に
耳から目から心が凍り
根腐れするだろう


ここでは話者が自らを深く諭すように、膨大な声に没入することの危機感を語ろうとする。言葉ひとつひとつの衝突に没入することは、心を傷つける行為となること。誤解なきように書き添えたいのは、対話の大切さや寛容さは前提としている。しかし時に対話に見えるようなSNSのやりとりでも話者が見えていない場合があるということだ。
話者が見えていない(あるいは話者を見ていない)ものの言葉は刺さりすぎる。言葉の棘をまろくすることもせずにそのまま相手へ差し出そうとする。
だから、そういう時には苦しいふりをして逃げる。自らが根腐れしないように。


痛みの(見え)ない場所から
痛みを与えることをやめろ
若き心はついえて、こんな場所に――
そう嘆息して、足元見れば
椿の花は雪の重さに
首を落としている


痛みのない場所などない。それは愚かな幻想だ。その幻のなかで痛みが見えなくなっているだけだ。そこから苛烈な言葉を吐いたりナイフを振り回したり、灯油を撒いたり火を放ったりできるのは、自らの痛みも他者の痛みも見えなくなっているからだ。
こんなことを考えなかった若き青い心はついえた。でもそれが成長だ。骨は軋むことをやめたが、精神はつねに軋み成長しようとする。そこには痛みがある。
椿の花も雪のひとひらを溶かすことはできても、処理の追いつかなくなるほど雪が降りつもれば自らの首を落としてしまう。そうなってしまう前に私たちは他者を慮り、幻想に陥らず、自衛をしながら、大切な隣人を守り、それから幻の中にうずくまる人のことをも対話へ引き戻すことが求められる。
私にこんなことができるだろうかと常に反問しながら、そんな希望を詩に仮託して記録している。おそらくこの詩は私にとってそんな意味を持ってくれている。

今回は自作について語らせていただいた。しかし読者の皆さんにこの意図が伝わらなくてもいい。すべてが伝わるという幻に依らず、自らの目も読んでくださる方の目も信頼する。未熟で非論理な私にはまだそこまでしかできないが、そのために歩みをとめないで、またこれからも連載を続けていこうと思う。
最後に自作へのお返詩は果たしてできるか。椿と雪に残酷な関係を与えてしまった自責を感じながらあたたかな詩を書きたい。少し過去の自分ときっかけをくださった渡辺八畳さんと文学フリマ東京へ感謝を込めて、スガシカオさんの「ハッピーストライク」を聴きながら。(年末年始、皆様どうか心豊かにお過ごしください。心が疲れている方、病気や怪我に苦しんでいる方には少しでも安らかな時がありますことを)


詩「椿さんと雪さん」

椿さん、あなたのこと好き
好きよ
私の飲んでくださるのだもの
だから
あなたの疲れないように
ずっと
ひとひらであなたに降りていく

雪さん、あなたのこと好き
大好き
凍える私に触れてくれる
空と海
冒険したお話を聞かせてくれる
私へと
降りてきてくれてありがとう

もう年を越えるのですって
年ってなに
進んで変わることだって
わたしたちと同じね
おんなじ
ええ、共にあって変わったのだから
大好き
好きよ



(文章:遠藤ヒツジ)

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『光よりおそい散歩』

 


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