第16編

小骨トモ『神様お願い』

すっかり読む機会が減ってしまったが、昔から漫画が好きだった。
小さい頃は僅かなお小遣いで買ったり、病院の暇つぶしで買ってもらったりした数冊の漫画を何度も何度も繰り返し読んでいた。小学校低学年くらいまでは物語の連続性を楽しむというよりは、一冊を反復することで理解や発見を楽しむという感じで、ある程度自分のお小遣いが自由になると、巻数を揃えるようになっていった。
漫画熱は次第に上がってゆき、小学校高学年くらいから週刊少年ジャンプを定期購読するようになった。1990~2000年代の小中学生達は、コンビニではなく個人雑貨屋など雑誌を購入していた。それは2日程発売をフライングするところがあったからだ。毎週月曜日のジャンプを「あそこは土曜日には店に並ぶ」「いや、あっちは金曜日の夕方には既に並んでいる」などの情報がクラスメイトの間を駆け巡り、少しでも早く最新号を手に入れたいと誰もが望んでいた。
大学生になってから本格的に小説や詩集などの活字本に移行していった私は、それでも友人たちに貸し借りする関係があったために漫画は少なくても買っていた。石黒正数先生を天才だと言い合ったり、浅野いにお論をずっと語ったりする友人もいた。
社会人になって忙しくなり、かつ小説や詩で語り合える人が増えてきたこともあり(あるいは青年誌はまだしも少年誌系の漫画に共感が難しくなってきたことも関係するのか)やはり漫画を読む回数は徐々に減っていったと思う。

そんな中で、久しぶりに衝撃的な漫画と出会うことができたので、魅力の一端でもお伝えできればと思う。核心はつかないようにしていますが、ある程度のネタバレがあるため、気になる方はこれより先は原作を読んでから、読み進めてください。

小骨トモさんの単行本デビュー短編集『神様お願い』(双葉社)はwebアクションに掲載された作品をまとめた一冊で、私は単行本発売前の作者本人によるツイートで作品を読んで、ヤラレテしまった。どの作品にも嫌な感情、心が乱された時に流れるどろりとした汗、気持ちの悪さが満ち満ちており、読者の心をざわつかせる。

冒頭作「藤田の生首」は山中で見つけたラブドールの頭部を唯一の友達にする小学生男子のお話。友達を裏切る、という行為はありふれて描かれているが、友達の設定の奇抜さ、着眼点にやられながら、裏切り行為についても思いを馳せる。
私は虚弱体質で運動音痴、いじめられる要素満載でありながら、幸運にもいじめやいじりを免れて成長してきた。それでも喧嘩をしたことは幾度かある。小学校三年生の頃、クラスメイトであり友人のK君と喧嘩をした時、クラスメイト男子の多くが自分の味方について、K君を無視したことがあった。残酷なことだが、それに対して私は「K君にとって当然の報いだ」と考えていた。しかし、翌日になると、クラスメイト男子の味方たちが一転してK君の側についた。私はその環境に耐える堪え性もなく、即K君に謝ることでクラスは平静を保ったわけだが、今思うとこんなに恐ろしいことはなかった。一瞬だ。クラスメイト男子がK君に何か言われたのか、背景はまったく分からなかったが、ともかく一瞬にして、自分がクラスから孤立したのだ。K君が許してくれなかったり、クラスメイト男子が「許さない」空気を残していたりした場合のことを思うと、自分は幸運であったと思うほかない。
救済にみえるもの、マジョリティが手を差し伸べる瞬間に、マイノリティにいた側を私はどうしてしまうか。強がって虚勢を張り、マイノリティの側に立って、共にあることができるか。私の心の弱さと常に対話しなければならない。

「スモウちゃんにさようなら」。これをツイッターで読んで私は単行本を絶対に買うと決めた。身体の成長が早く、クラスメイトからスモウちゃんと呼ばれている女の子にまつわるあれこれを描いている。主題がぐるぐるしており、中心の見えない作品だが、そここそが魅力であろうと思う。作者の解説を見る限り、実体験をある程度反映させた作品だと推測され、おそらく実際にもぐるぐるとした問題は解決しなかったのだろう。作品である限り、起承転結が見事で主題の解決が成されるものが優れている、と考えがちなのだが、作者の伝えるべきことは主題なきぐるぐるした物事自体であったのだろうし、それが作為的にではなく、無意識的に滲み出ていることに驚嘆する。
この作品には小林先生――コバセンと呼ばれる非常に優秀(と見える)先生が登場する。クラスをひとつにまとめあげる力を持ち、受け持つ小学生たちを効率化できるようなドライな側面を持ちつつ、親からも同僚の先生方からも信頼が厚い。非常に優秀(と見える)先生は排水溝のような装置を作るのが上手だ。生徒たちのストレスの捌け口。クラスメイト全員が「排水溝のような、この子より自分は上にいるから安心」と思える環境を巧みに作り出す。また作者の秀逸さ・独自性は、このコバセンが排水溝の役割を与えているスモウちゃんにも親身(な風)に接することだ。そうして、上手く立ち回ろうとする。胸糞でありながら、読者の心にも深い印象を与えるキャラクターだ。

「アブラゼミ」。盛夏の頃、同級生である梨本君の不登校をやめさせるために小林君が毎日のように梨本君の家に行っては外から声をかけている。小林君は依然通っていた学校でいじめを受けて、今の学校に転校してきた背景を持っている。そして、今の学校ではいじめられることもなく、充実しているのだろう――自分と同じ辛い思いをしている梨本君を救いたい一心で小林君は行動している。
その純真さが変じていくのは梨本君の母親が登場してから。梨本君の家に赴いた小林君は梨本君の母親と出会う。気だるげで汗に濡れた肌や髪の毛が艶めかしい母親。彼女がしゃがんだ際に見えた下着に興奮を覚え、彼女への性的興奮が彼の純真さに混じりこんでくる。
最後まで書いてしまうと読む楽しみが失われてしまうので、この程度で留めるが、家の内と外によって境界の一線が保たれていた梨本君と小林君。その関係性が母親によって境界が歪に破られて、一線が溶けてしまった故の物語展開につよく惹かれた。
題名となっているアブラゼミは物語全体のノイズとして鳴りつづけており、漫画表現故のコンクリート・ポエトリー的な技法も見応えがあった。

「神様お願い」。表題作の本作にも小林君は登場する。同じ名前の登場人物を色々な性格や姿をもって登場するスターシステム。作者にとって小林という姓が大きな影を落としているのかと勘繰らせる。しかし、下手な勘繰りよりも、私は集中に共通して現れる小さな林の中で発散される欲動の数々を誤読する。
この作品の主人公である小林君は陰鬱とした情動を抱える体育嫌いの根暗な少年。唯一人の友達と愚痴を言い合う他は、腋毛の生えた同級生の女の子に鬱屈した気持ちを抱きながら絵を描くことくらいしか出来ることがない。彼の気持ちが私には分かる、と言いたいが言えない。中学高校と美術部で運動下手だった私は幸運なことにいじめやいじりを免れていたし、女子との交友は少ないわけではなかったからだ。
そして、この物語は小林君の視点から描かれているゆえに、友人の鬱屈のすべては描かれない。だけれど、小林君と同じ環境にありながら絵によって何かを発散させることすらできない友人の気持ちの歪み方は如何ほどか。「スモウちゃんにさようなら」でコバセンが作った排水溝のように自らにも欲動や情動の捌け口がなければ、いずれ溢れ切ってしまう。

最後の一作は「ファーストアルバム」。各作品から短編集のタイトルに挙げるなら「神様お願い」か、この「ファーストアルバム」だろう。シングルマザーであったのだろう朝子とその子供である治、朝子と結婚をした直人。直人は朝子を心底愛しているが、治の視線・目線、そのぎょろりとした目に耐えることができず、関係は良くない。直人は過去の陰鬱だった頃に心の支えとしていたCDアルバムを今でも愛聴していて、朝子に甘えるような態度は見せるものの、それなりに社会人として仕事をこなす大人である。一方、治は母の朝子にもつれない態度で、直人のことはじっと見つめることはあっても話すようなことはしない。かつ、クラスメイトを小馬鹿にするような態度をとり、上手くクラスに馴染めない。強がるような一面を持っている。朝子はどちらにも寄ることなく、直人にも治にも同様の愛情をもって接している。直人と治、どちらにも修復する「直す」と「治す」が名前に取り込まれていることが印象的だ。
直人は治に向けられる朝子の愛情に嫉妬するが、同時にクラスで孤立している治にかつての自分を重ねて同族嫌悪の感情を抱いていると思われる。孤立するものを救おうとする「アブラゼミ」とは対照的だ。直人と治の関係については、ぜひ作品自体を追っていただきたい。

鬱屈とした少年少女・青年たちの突き抜けられない衝動が渦巻く物語たちを通して、自らの学生時代を振り返ると、やはり自分は幸運だったと言わざるを得ない。
また、想い出語りになってしまうが、中学校の林間学校でレクリエーションの一環として「ハンカチ落とし」を行なったことがある。その時、鬼になった私は普段そんなキャラクターではないにも関わらず「もう林間学校から帰りたい人!」や「明日の牧場見学を抜け出そうと思っている人!」など発言し、奇跡的にウケた記憶がある。また、なぜか仲良くなった不良の友達がいて、一緒に職場体験すら行った記憶もある。当時は自覚していなかったが、おそらく彼と仲が良かったことも私がいじめを回避できた原因でもあったと思う。もちろんそれは私自身の性格や人柄という側面もある。
しかし同時に、「なんか空気読めないやつ」や「不良の俺に失礼なやつ」とレッテルを貼られて、いじめの空気が一瞬で生み出されることは有り得ることだったと感じざるを得ない。中学高校に所属していたのは美術部だった。そこには男子がほとんどいなかったから、女子に冷遇されることだって有り得た未来なのだ。
いじめの空気は醸成されることなく、一瞬で生み出される。そして、そのいじめの対象は、みんなの不満を垂れ流し、その対象へと向かっていく排水溝でもある。私がアマゾンで販売している電子書籍『銀河鉄道の夜の夜の夜の夜』という作品にはまさにその構図のことを描いている場面があるので、興味のある方にはぜひお読みいただきたい。思えば、ジョバンニ君も排水溝の役目を負って、本当にただ一人であった。

流れに筆を任せるうちに「いじめ」に関する話に流れていってしまったが、陰鬱にして過剰なる情欲のエネルギーを漫画へとぶちまけた小骨トモさんの作品集を皆様、ぜひご覧ください。
小さな詩をファンレターの代わりにお送りします。


詩「林の中で」

ざわめく林の中で
粘つく汗は
流れ落ちない
蝉が五月蠅く
同じ箱庭で
みな騒がしく
ものみな
なべて
煩わしく
僕は
産む
術を
もたない
からだだから
いやに白く
膿を産み出す
唾棄し
吐き出すように
欲動を抱きし心
どろりとして
青臭く匂うところ
いつまでだって
こびりつくあの娘の林の奥を
離れないあまたの蝉の音
心を怯えさせる甲高い声
校庭は向こうの世界
僕は林にて君と再会
友達に僕は首ったけ
うつむく若葉の影
入ったことない君の家
神様に願うのは僕だけのため
聖典はあのファーストアルバムだけ
初期衝動情動欲動胎動運動は大嫌い
残響する心音と声音
あの娘の林はどこかね
僕のすべてが鼓動する中で
ざわめく林の中で
葉波の音が聞こえる
花火の淡き儚さは向こうの世界
肌かの皺に
お前の脇にある
林の底に
やわきものを
硬くし杖とし
奥底へと探りたい
ざわめく林の中で
僕の脳のなか
すべてが五月蠅く溶け合い
なのに孤独で影と語り合い
カッター


君の首と
あいつの身体
つながるかな
でも結局
くずれるからだだから
僕は奈落の底へ
落ちる
たくさんの僕たちを見ながら
ざわめく
林の
その
奥へ向け
カッター

学生シューズは焼いて 奥へ


(文章:遠藤ヒツジ)

前編:北村透谷「思想の聖殿」
次編:バイロン作・小川和夫訳『マンフレッド』

『光よりおそい散歩』

 


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