第23編

タムラアスカ『光合性』(白昼社)

 2023年2月10日から11日にかけて大阪に行ってきた。当初の目的は10日に開催された日本詩人クラブの地域例会 IN 大阪に理事として出席する仕事があったためだが、同行したパートナーの三木悠莉さんによる発案もあり、折角なので大阪で朗読も楽しんでいこうという話になった。
 日本詩人クラブの地域例会 IN 大阪は神田さよ理事をはじめ、関西圏内の詩人の方々のご尽力もあり、大盛況かつ有意義な時間であった。講師の野沢啓さんの話も興味深く、プリントの端にメモした【言語的無意識を育てる】というワードが今でも書類棚に眠っている。例会の後は先約があったため、日本詩人クラブの集まりを抜けた。
KOTOBA Slam Japan2022 大阪大会でお会いした dogezaEXP さんに大阪の飲み屋を案内してもらい、しこたま大阪を堪能させてもらった(お世話になりました)。途中からあまり記憶がないほど飲み屋をはしごしたが、翌日には頭をふらふらさせながら、私も三木悠莉さんも dogezaEXP さんも朗読会場にきちんと集う辺り、みんなの朗読好きが伺えると思う。
 11日に開催された朗読イベント「ぷらっと木霊」は会場としてギャラリー・ブックショップ【犬と街灯】をお借りして催された。ショップ店主の谷脇クリタさんと私、タムラアスカさん、続いて三木悠莉さんの計4人がメインアクトとして朗読をした。参加された皆様にはオープンマイクの場で各々の朗読を存分に聴かせていただいた。
 そこで共演し、かつ【犬と街灯】で入手したタムラアスカ詩集『光合性』(白昼社)を今回はご紹介できればと思う。

 本詩集は2009年に刊行された第一詩集『未/幹/性』(田村飛鳥名義・一〇〇〇番出版)以来13年ぶりの新詩集である。35編の詩が収められており、章立てなどのないシンプルな構成をしている。そうかと思えば、「ノイズコントローラー」と「私と僕のよくわからない話」は横書きになっているなど、変化のある体裁も楽しい。
 二冊の詩集ともに〈性〉の一文字が入っていること、そして〈幹〉〈光合成〉という植物の語彙が選択されている点は意識すべきだろう。

 巻頭詩「々」は〈なのにその意識を着て歩いている〉とさりげなく始まる。私の読みではおそらくこれは題名の「々」をおなじやくりかえしという読み方をさせて、〈おなじ//なのにその意識を着て歩いている〉、または〈くりかえし//なのにその意識を着て歩いている〉のように題名と本文冒頭をシームレスに繋げる試みと読めて、仕掛けの面白さが光っている。
 この詩は分かりそうで分からないイメージが繰り返される。常体と敬体が入り混じり、意味の接続は展開しようとする瞬間に次の意味へ接続されて分断される。そうであるにも関わらず詩の形式は散文詩的な羅列であるが故に、分断されているものが接続しているように見える。
 明確な意図は汲み取れないけれど、私はこの作品に抽象的な詩以前の言葉を垣間見る。肯定と否定、文体の齟齬、接続と分断、そのように渾沌として、かつ饒舌な思考は詩人によって練り上げられてようやく詩の形を成す。〈シャワーヘッドから勢いよく飛び出すネバーギブアップが、開けた口の粘膜を傷つけて〉いるのは、いかに詩人が言葉を吐き出す以前に多くの傷を体内に取り込んでいるのかを読者に提示する。そしてそのような苛烈さを伴っても〈尚こびり付いている意識の、あらわになった姿〉としてあるものが詩なのであろう。

「tomato」では僅かにひねくれた倫理や価値観が小気味良く語られる。

〈トマトの水分と養分が独り歩きして、概念を無視していく。〉

〈トマト〉に栄養や価値などの生活要素だけを見てしまうことで、〈トマト〉そのものへの思考は停止している──そのことへ抵抗する詩であろうと思われる。〈天国に行ったことがない人ばかりが生きている街は、天国に見透かされている〉といった詩行の展開にも驚かされながら、詩は〈テルミートマト〉〈トマト〉そのものへ応答を求める。やがて次第に倫理の暴走するような形で詩の話者は〈キルミートマト〉と生きること・食事することのためにある〈トマト〉に殺しを求めるひねくれた倫理感が顔を覗かせる。
詩の言葉ひとつひとつは具象的であり映像が浮かぶにも関わらず、作者の詩は抽象性を常に失わずに、曖昧な輪郭を詩世界の色として添える。

「光合成」は本書を読み解く鍵のような詩であろう。〈ギリギリのところで置かれた鏡に光が反射〉することで、〈緑が繁〉〈価値観を〉更新させる。生活と思想の境で光る鏡が詩の緑を繫らせている。価値観が更新される感覚を〈新しい瑞々しさ〉〈未知数のクラクション〉と巧みに活写してみせたかと思えば、〈共存することは大人の最上級の振る舞い〉であると少し皮肉めいてもみせる。詩行の飛び方が意識の流れに任せたような筆致で、読者はその詩自体が内包するバネのしなやかさに驚き、翻弄される。
そして、何よりも以下の詩行が重要であると考える。

〈曖昧であることで認知されるものはたくさんある。
鏡に映し出された戸惑いの顔に語りかけるとしたら、こうだ。
 緑には供給の意識がない。〉


 作者の詩は饒舌でありながら、どこか明確な像を結ばない曖昧の輪郭を備えている。どこまでが詩人としての策略であるか、計ることが難しいけれど、意識の流れに任せたと思える部分が饒舌さと曖昧さを獲得している。
 だからといって難解なわけでもなく、詩の言葉はすんなりと読者に入り込んでくる。
 そして〈緑には供給の意識がない〉という詩行はいかに解釈するべきか。
 一般的に考えて植物の光合成には酸素を生み出すという供給の行為がある。しかし〈供給の意識〉があるかと問われれば、その点は回答が難しい。おそらくそれは無意識と意識の狭間への問いかけである。詩人は詩を世に供給する行為をする。しかし果たして詩を世に供給するという意識はあるだろうか。それは供給という形ではなく自然と溢れ出てしまう御しがたい何かではないだろうか。その何かを探るための饒舌をこの詩集に見る。
作者にとって、植物と性は重要なテーマであろう。そして性とはおそらくセクシャルではなく、性質や繁殖を求めるボディの意味合いが強いのではないかと思う。
「ノイズコントローラー」には〈【BODY】//紙は救世主として置かれています/(中略)/喉があたたまる言葉で書いてください/肉体は見えないものです〉とあるように、作者にとっての身体は不定形・不可視なるものであり、そこに植物の光合成のような方法をもって光をひたすらに与え続ける。そうすると緑が繁り、次第に肉体の輪郭が伺えるようになる。
 作者の詩作とはおそらく、そのように葉を一枚一枚作り出して、緑を繁らせ、未だ完成を見ない幹(樹木)を成長させるような営為なのだろう。
 素晴らしい詩集へ敬意をもって、一編の詩を添える。
皆様も詩集『光合性』ぜひお読みください。

詩「ランダムボディ」

塗り替わる
未明に
太陽がすっと
地球を撫ぜて

起き上がる
不意に
意識が無意識を
覗こうとして

木々が繁る
庭に
鳥小屋を作った祖父の
影が草葉にこびりつく

選べない
身体に
肉体や液体
思想や自我を詰め込んで

選べない
身体に
無数の穴が空いていて
世界を激しく呼吸する

選べない
身体に
喜怒哀楽を
揉みこんで忙しない

選べる服で
着飾って
饒舌をようやく彩る
滴りの跡に糸をほぐして

選べる道に
影を伸ばす
春夏秋冬で
歩幅を変えて

選べる者の
日の倖いを祈り
選べない者の
ランダムボディへ未来の倖いを祈る

塗り替わる 移り変わる すっかり代わる 血と肉に
塗り替える 移し替える ランダムボディが呼吸して
庭先を遊ぶ鳥がチチと鳴いて 小屋へ接続した


(文章:遠藤ヒツジ)

前編:詩劇「いないる」
次編:モリマサ公『絶望していろ、バーカ』(しろねこ社)

『光よりおそい散歩』

 


ShareButton:

返信する