第24編

モリマサ公『絶望していろ、バーカ』(しろねこ社)

  詩を書いて声に出す、という行為はいかなるものだろう。
 モリマサ公さんの詩集を読んでいて、そんなことを考えた。
 私などは声とは自由なもののように捉えがちだが、よくよく考えるとそう生半可なものではなく定着する側面もあると考えられる。
 小中学生時代の話だが、周りのクラスメイト同様に私は週刊少年ジャンプを愛読していた。ナルトやブリーチなどのアニメが放映される中で、アニメ「ワンピース」に登場する麦わら海賊団の一員となるトニートニーチョッパーがアニメに初登場した時は「チョッパーはこんな声をしているのか」と感じた。それからというものの漫画に出てくるチョッパーは大谷育江さんの声で響いてくるようになった。黙読によってなんとなしに再生されていた声は霧消し、定着化された。この時のモヤモヤした感覚は今でも覚えている。この時の経験から、私は人の声とは、一度耳にして定着すると、なかなか拭い去ることはできないことを知っている。
 日本でも Audible のサービスが開始されて幾年と経た。けれど、決して一般的に普及されている状況とは言えないだろう。一方、欧米では作家とはニアリーイコールで朗読する者というイメージが定着化(日本のサイン会とは比することができないほど、新刊刊行時にはドサ回りのような形でアメリカ全土を回ることになるらしい)(※1)しているという。日本では小説家の新刊が発売されたからといって、全国ツアーはやらない。黙読の文化が強すぎるというより音読の文化がほぼ失われているといった方が良い。日本史を振り返ると明治時代までは読書といえば音読であった。たとえば新聞を電車内で読む人もぶつぶつ呟いて読んでいたり、詩も平然と声に出して読まれたりする文化が一般的であった。この辺りは島崎藤村の小説『春』から学んだことだが、詳細は別稿に譲りたい。
 だからもっと声に出して、読書をしたり聴いたりすることで明治時代の一般分を引き戻そう──その文化が定着すれば、楽器のない音楽=ポエトリーリーディングも流行るはずだ! という短絡的な思考には陥らないように踏みとどまりたい。もっと色々な障壁があるはずで、このように前書きしたのは私の経験や拙い知識を読者に共有したい思い故である。

  前置きはこのくらいに留めて、今回は朗読活動も盛んに行う詩人、モリマサ公さんの詩集『絶望していろ、バーカ』(しろねこ社)をご紹介していきたい。
 モリマサ公さんとは2016年11月7日に開催されたポエトリーリーディングオープンマイク SPIRIT を最後にしばらく会わなくなった。モリマサ公さんはプロのスノーボーダーとしても活躍しており、そちらの活動に専念しているのだろうという程度に考えていた(お会いしたい気持ちも持ちながら)。あの時、モリマサ公さんは「オキシジェン・デストロイヤー」を朗読していた記憶があり、私はその数回前の同じイベント SPIRIT で(私の朗読に関して)「詩がもっと人に伝わる形で朗読できるといいよね」というような言葉と共に笑いかけてくれたことを覚えている。そんな備忘録を残しつつ、本題に入っていきたい。

 私は読書する時、あからさまなネタバレがない限り、あとがきや解説を先に読むのが好きだ。作者の本音や解説者のガイドが頭をすっきりさせて、読書への入り口を滑らかにしてくれるためだ。
 そんな中で真っ先に読んだ本書におけるモリマサ公さんの「あとがき」はまごうことなき詩であった。〈黒目がちに、雪を選んで地面を歩きすでに五年たった。〉と詩に距離を置いていた自らを振り返りつつモリマサ公さんは〈一番好きな色は? と問われて選ぶ色は白だった〉と書いている。それはスノーボーダーとしての経験から幾度も見つめた雪原の白さであるとともに白紙(タブラ・ラサ)でもあると思われる。また空想を広げれば、パソコンのスクリーンに映し出される文書ファイルの白さでもあったのだろう。そして彼女にとって、その白は透明の堆積なのだと思われる──。

巻頭を飾る「ボーイミーツガール」から「東京」、「2020」──「のの/ようこ」を飛ばして、「タイムマシーン」の4編のいずれにも〈透明〉というワードが積極的に詩を彩っている。
「ボーイミーツガール」にはSNSなどに投稿をすることで話者の存在が透明・半透明といった不確かなものへ移り行き、その投稿に〈いいね〉が二桁つくことで、その存在感や色を取り戻す。承認欲求でもあり、言葉を吐いた瞬間の空白と外界への認知によって自らの立ち位置を確認し取り戻すような感覚は確かさよりもむしろ不確かさをより際立たせて詩の隅々まで行き渡らせる。

駅のトイレでパフェとか吐いて顔を洗ったから髪の毛といて自撮り
廃墟と化した地上に向かう途中たくさんふぁぼられていくのかんじながら
「死ぬ」とか「生きる」とか
そういうものになって
いった

詩の末尾5行の引用だが、実を言えばこの話者が〈パフェ〉を実際に食べたのか曖昧なのが興味深い。詩の7行目〈「パフェの写真」の「インスタグラム」みつめて「いいね」して〉とあり、承認欲求という側面から読み込むと、このパフェの写真は自分が投稿したもので、自らの投稿に〈いいね〉したと読むべきだろう。しかし、他人の投稿に〈いいね〉したという誤読の余地も残されている。この話者はコンビニからファミレス、地下鉄から駅のトイレへと移動をしている。それらの場所はいずれも他舎との共有空間であるにも関わらず、詩に他人は影すらも見せず一切登場しない。他者の存在が感じられるのは〈いいね〉されたファボ数のみである。インターネットの孤独を歌いつつも、同時にインターネットの共時性・接続の感覚を描く矛盾が面白い。

「東京」は雑多な都会の情景に自らの記憶を重ね合わせて抒情深く歌い上げる佳品である。

自分という風景がホームを離れて
証明されていく毎日に
透明な祈りと電波が重なりながら
(中略)
世界中誰もが吐く息の白さが
同じ白だということ

〈透明な祈り〉という印象的な詩行とともに〈息の白さ〉が誰しもに共通している点を看破する。気霜と呼ばれる吐く息が白くなる現象は体内で温められた息が外気との温度差で細かな水滴となるために白く見えるわけだが、それはつまるところ日常的には(温度の近い関係性では)息は目視できない。そんな透明なものであるというわけだ。

「2020」は「ボーイミーツガール」で語られた〈死ぬ〉〈生きる〉の境界をやはり透明な膜のようなもので包んで読者に提示している。この詩には〈おれたち〉・〈あたしたち〉・〈僕たち〉とポリフォニーな話者の声が存在して、2020年の今を生きる者たちと過去を生きた人々の礎が時に軽薄に、または敬虔な美しさをもって語られる。
冒頭の〈川はおびただしい死体の群れでおおいつくされて/おれたちは水に触れることなく向こう岸までたどり着くことができた〉という2行にはどきりとさせられるが、この詩行は決して軽薄な意図だけを持っては描かれたわけではないだろう。失われた多くの命を礎に、その苦しみの上を歩む。苦しみを見ず、悲惨なる光景を触れることなく彼岸へと辿り着いた平和なる世代から向けられた敬意ある行動と言葉とも思える。どの時代にも必ず苦しみや哀しみは尽きることはないけれど、先代の抱えてきたものを橋や土地のようにして歩む態度が垣間見える。かつ、そんな荒涼の風景を〈光を失ったコンビニエンスストアーの自動扉を手動で開ける/店内のがらんどうは今映し出されたあたしたちのこころだ〉〈ぐずぐずのアスファルト/浸水した水に浮かぶいくつもの屋根/この風景はおれたちの心を映し出す鏡だ〉と語る誰かの声に時折振り返り、声の主を見定めながら傾聴する姿勢を詩によって知らされる。

集中、もっとも長い一編「ノーアンサー不在の時代」にも触れておこう。作者の詩には速度があり、消費されて透明になってゆく固有名詞の数々があり、見えているのに実体のないデジタル・メディアが何度も顔を出す。この詩もその性格を大いに有している。まず話者は〈不安の話をしよう〉と告白し、詩行を恐ろしい速度で展開させていく。
〈10年後に/おおいにずれていく「価値観」を考慮し/覗き込んでいる今を/「自分自身」だと/「自覚すること」をわすれるな〉という提言から、四方八方にシナプスを広げる詩の展開が見事だ。白黒つけたがる、あるいは論破して自らの勝利を到達点とする暴力的な回答を否定し、〈ノーアンサー〉または〈コタエなんて存在しない/あたしはプロセスそのものだ〉と無回答を許さない時代に抵抗する詩人の声や筆致は力強い。一つの小さな発見(回答ではない)がさらなる未知を求めてシナプスを広げるからこそ、きっと私たちは詩を書き続けてゆける──そのような態度に大きく首肯する。

掉尾を飾る「夏至」は「2020」や「虹」、「ベルリン」に見られるような戦争などに起因する痛ましい記憶が話者の身体を通して語られる。

ここは国境じゃないし
あたしは自分の国を捨てようとして信仰のためにあるいてるわけじゃない

話者の自らの立ち位置と国境を越えて争うものの声や言葉が「2020」同様に様々な一人称をもって語られて、ポリフォニーな形で現れる。
島国である日本に生まれた国境を肌に感じなかった自分たちと今、内陸国で行われる様々な紛争に思いを馳せながら、自らの家族との闘争や和解について重ね合わせるように詩篇を慎重に紡いでいく。

ねえ
あたしたちってばらばらだったけど
本当はぜんぜん家族だよね?
俺たちの家はからっぽになり
ここはもうすぐ夏だ

夏は苛烈な戦争の予見でもあれば、生の謳歌を暗喩しているとも思える。この両義性を携えながら、絶望と希望の合間に、生や死や聖や俗、賢や愚、透明や透明ではないもの、抽象と具象、あらゆるものの狭間に振れながら、決して答えに向かってはシナプスを近道させない生肌の詩人の声は詩集に定着して、音楽のように響きだす。
 最後に一編の詩をお返事に代えて添えます。

※1 柴田元幸インタビュー「40年後のリベンジ」【POETRY CALENDAR TOKYO特集記事アーカイブ】を参考にしました。



詩「鮮明」

本当はもっと
きっとそうなんだ
そうだったんだ
あれをああして
こうしたシナプスがあれば
幹は潤い 水は豊かにせりあがっただろう

けれどどうもこうもこれだ
溜息は冬の息よりもわずかに空しい
伽藍堂の中で頭からっぽの祈りが
デジタル・メディアの電波にくるまって
電線にとまった鴉の眼をくるわしてる深い青の淀み

「アクリル板が各店舗からじゃんじゃか集まって」
ずいぶん肥ってしまった大学時代の友人がいった
「それを倉庫の隅にまとめたんだ
 ハンディラップで5枚一組。サイズごとに分けてさ」
友人はリアルゴールドサワーを飲んで小さくゲップした
二重顎 俺も人のことは言えないが
「その束をいくつもいくつも倉庫の隅に立てかけてると
気づいたらもう鈍い精液みたいな白になっていて、倉庫の空気も埃臭い……」
置き去りのアクリル板
取り除かれたマスクはリュックサックのサイドポケット

承認欲求を満たすための月夜の写真
きれいごとを並べて
難しいことは考えない
やっかいごとを対岸にみることで
俺は川を渡らないでいられたのだ

今ではきっとそうだ
もうこんな風にはいられない
けれどもずっとひきつがれ
シナプスは絡まる

友人が塔の話をして
俺は彼の煙草を一本
居酒屋の卓に立ててみせた

新世界
見せかけの瑪瑙
つるつるの希望
絶望と諦念を越えて
時間もなく透明になるな 君たち
倍速再生をやめろ
焦らずに揺れろ
煩悶し苦悩し楽観し快楽し
振り子のように揺れて
自らを調律するのだ

月夜の写真
SNSに投稿しなかったから
夜に影を
伸ばせている
道すがら
なにげなく横切る民家
窓に灯る明かりに
見知らぬ生活

友人の姿が
出会ったから
鮮明に焼きつく夜


(文章:遠藤ヒツジ)

前編:タムラアスカ『光合性』(白昼社)
次編:北村透谷「楚囚之詩」──翻案

『光よりおそい散歩』

 


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