※ページ毎に本人の作品をご覧になれます
(クリックすると拡大表示されます)
葛原りょう:中心に書いていた時期はないね。自由律も書けば短歌も俳句も書き、ぐるぐるしていた。詩が書けないと短歌を書いて、そこで息詰まると俳句を書いて。そうするとまた詩も書きたくなるし、このサイクルがジャンルを横断するというか、車輪が回っていくように働いていた。
午前 0 時から 2 時までは俳句を書いて……、もう日替わり(笑)。それでたくさん書いた。30 代の内に詩の点数を日本で一番、書いていると思う。もう数えるのをやめたけど、4,5 万は確認できている。与謝野晶子が短歌で生涯書いたのが 3 万ぐらいかな。数打てば当たるじゃないけどさ。
葛原りょう:そうそう。20 代の後半は詩を書くか、破壊衝動でガラスを割って血まみれになったり、酒に溺れるか。そこで酒浸りになって福島泰樹*23に会ったのよ。彼に拾われて、俺が師匠と呼んでいるのは世にいないんだけど、師匠と言えるなら福島泰樹かな。俳句は角川春樹*24なんだけどね。
(短歌絶叫 40周年記念コンサート 遥かなる友へ 追悼 立松和平より)」
春樹さんとは縁があって句会に出させてもらって。角川春樹は俳人で、あっちの廃人でもあるかな(笑)。大麻で捕まって、でもその時の俳句が一番いい。
葛原りょう:そこにあるすすきが遠し檻の中。これがとてもいい。すすきに触れることはできない。
葛原りょう:詩集を出してからだね。24 までは習作の時代。詩集を出してその詩のレベルを基礎に置いて、明らかに人に見せられるとなったのは、その頃ぐらいだな。
葛原りょう:そうそう。それまでは俺の中で拙い感じがあった。または青くさい、山田かまち*25のような詩を書いていたね。勢い、勢い、勢い。それに近いような言葉で書くことが中心だった。そうじゃなくて文学としての詩、成熟したレトリックなどを含めて、暗喩などをうまく使えるようになったのはひとつめの詩集を出した頃。それで俺の詩はようやく人に見せられるレベルになった。
とにかくライバルがいなかったからさ、その頃は俺のような詩を書く人も周りにいなかったから、ライバルはもう亡くなっている詩人たち。萩原朔太郎*26、中原中也とか、そういう詩だけを比べていた。一番付き合ったのは宮沢賢治*27だけどさ、とにかく、比べる。
自分の詩が見劣りしていないか、冷静に見る。その作業はずっと続けていたね。でも、投稿しても通らないんだよ(笑)。
葛原りょう:『現代詩手帳*28』についに一回も掲載されなかった。
葛原りょう:凄い数を投稿していて『詩人会議*29』や『詩と思想*30』には入選していた。ただ、俺は中原中也賞以外は獲るつもりはなかった。現代詩手帳で賞を獲って中原中也賞を獲るんだって。現代詩手帳賞を獲らないと中原中也賞は届かないからね。そういう仕組みで。
そうしたら H 賞*31にひっかかってさ、H 賞は当時でいうと詩の中では芥川賞みたいな位置づけ。今は中原中也賞の方が全然あれだけどさ。第2詩集の『魂の場所』が H 賞の最終候補までいってさ。そこでも色々と裏口入学があるような人をみかけたり、要するに選者の弟子が受賞しやすい。俺には師匠いなかったからさ、自力で最終選考までいったのに、いきなり最終選考から入る人もいる。
選者の人の鶴の一声でその人に賞が決まって本屋に並んでいる。受賞しないと本屋に並ばない、つまり詩人としてさえ認められない。そこが一番の壁だったね。
葛原りょう:うん。詩人クラブや現代詩人会議という会があるんだよね。入ったんだけど、すぐに辞めてひとりで書いていた。唯一群れの中に入ったのは福島泰樹の「月光の会」と角川春樹の関係の俳句の人たちだね。
葛原りょう:60 ぐらいだったかな。俺が 20 代の時の 40 代とかはあまり元気がなかったように思う。大きな人がいなかった。
葛原りょう:もちろん。いっぱい学ぶんだけど、やっぱり格だね。泰然自若として揺るがない詩観、絶対的なる揺るぎのなさ、それは自信とは違うんだけどね。自信は持つんだけどそれとは違う。福島泰樹の酒豪のような面もあれば、坊さんでもあってすごい人格者でもある。酒でダメな面も見ているんだけど、これぞ作家と感じた。そういう人たちだけと付き合っていた。
角川春樹も作家だよね。役者としても少し松田優作を世にだした時に一緒に出てたけどさ、角川春樹は映画に出ちゃいけないと思うんだ(笑)。薬師丸ひろ子*32をだした時、『人間の証明』や『高校教師』、『よみがえる勤労』などはよかったね。とにかく格ですよ。人間は。自分がそれに足りないと思ったら、それを満たすしかない。そういう精神修行かね。
葛原りょう:プロセスは大事として。なんで不足しているのかなどを考える。原因を追究する。それは色んな本を読んでも身につくものでもない。文学だけじゃなくてガンジー*33やマザーテレサ*34の本、宗教家や哲学者の本をたくさん読んでるけど、やっぱり実体験を乏しくしたくないなって。その体験の人と人の出会いで生かされていることも分かるし、支え合うこともできるし、その実感の連続で核を作り上げる。
葛原りょう:そうそう。相談ごとを受けたらガッツリのっちゃうんだよな。相当それで大変なこともあったけど、悩みのある人には徹底的に付き合うことをしていたね。それは俺が悩んでいた時にだれもいなかったから寂しかった。つまり、自分が求めている人間に自分はなる。
これ文学もそうだと思う。同い年ぐらいで自分を掻き立てるような詩人の作品がなかった。そういうものがなければ自分でやるしかない。だから自分でやる。こういう場(工房ムジカ)を作ることも、見渡してもなかったから。全て自作自演だね。
葛原りょう:ムジカはね、森田尚樹と話し合っている時に「丘の上出版」という出版社を作ろうと、本を出そうねって。どちらかが先に死んだらどちらかがそいつの本を世に出そうと約束した。そこが原点かな。それで出版のことを独自に勉強して、当時はインデザインも自分でやったし、『大衆文芸ムジカ』を出版したのね。もう 10 年ぐらい前かな。
葛原りょう:そうだね。30 の時はムジカマジカという朗読バンドを始めたころだね。20 代はとにかく長かった。名前のない苦しみの連続だった。30代は表現の時代になって、ようやくね。バイオリンとピアノとドラム、パーカッションのバンドでお客さんも 100 人くらい集めることができた。それでワンマンライブをよくやっていたね。詩の朗読のワンマンライブはなかなかないのさ。
ちなみに、そこら辺りは詩のボクシング*35の時代だね。
葛原りょう:一回だけあるけど、俺の朗読はなぜか通じなかった。愕然としちゃったね(笑)。詩は良かったと思うんだ。詩のボクシングも途中からコントをやる人が増えて、聴衆のジャッジがあるからウケるためのパフォーマンスになって、肝心の詩の中身は置いてけぼりにされて、それは嫌だなと思った。
お笑いは素晴らしいと思うけど、うーん、難しいね。本当にコントをやる人はその世界にいくと思うんだ。「そっちの人に対して失礼じゃないか」というぐらいの人がいっぱいいた。でも、自分がそう感じた人が詩のボクシングでは上の方にいく。
葛原りょう:いや、40 まで自分の箱を持ったことはなかったのよ。30 代までは自宅兼仕事場、もしくは高円寺にデザイナーの事務所があって、そこを間借りしていたね。だから、自分の箱を持ちたかったね。自分は誰かの下で働くことができなかったね。遂に。居酒屋で働いていてもさ、そこは会長のために働くわけよ。それじゃ、何のための人生だとなってね。
葛原りょう:他の出版社でも働いていたけれど、結局はその出版社の社長のために働く。それじゃないんだよ。自分が生きなきゃ生かしてくれた人たちに申し訳ない。痛恨して思うわけよ。森田尚樹だけじゃなくて、色んな人が親友で死んでいて、やっぱり死の数が多かったかな。
精神科で入院して閉鎖病棟で知り合った友達や警察官の友達がいて、そいつが 30 階から飛び降りて死んだんだけどさ、30 後半だけどね。最近になってだけどさ。一人はアルコール中毒で裸のまま見つかって死んでいた。その裸の第一発見者は俺だったけどさ。
警察官の子も結局お酒でダメになっていたんだけどね。この社会に殺されたようなもんだなと、そういう風に思うことは失礼だからなるたけそう思いたくはないんだけど、ただ身近な人ほど死んだな。あと銅版画家だった叔母も、葛原家の中で唯一酒が飲めて芸術論が交わせたのが叔母だった。その叔母も 56 歳で癌で一瞬のうちに死んだね。彼女の画集を俺は作った。

葛原りょう:出版社でやりたいのはそういう身近なね。森田尚樹の本をまだ出していないのよ。それだけは出して、残っている仕事かな。後は自分の詩集、歌集、句集をだすことだね。44 になって句集はようやく今度でるからさ。30代はとにかく働いたね。結婚もしたんだよ。佐賀からいきなりひとりで東京にきた子でね、その子が俺のライブを観て「自分の絵を見てほしい」と言われて、絵をみたら良かったので、大衆ムジカに掲載しないかと話すうちに、付き合うことになったね。
そのあともう一回ヘマしてんだよね。警察沙汰。あっ、20 代から 30 代で何回も警察沙汰を起こしてしまっているのね。
葛原りょう:そうそう。父親から警察に 3 回も通報されているからね。父親は怒りで詰まった時にはすぐに警察を呼ぶよな。息子に困ったら 110 番、自分で解決しない。
葛原りょう:それで嫌になって親父とはダメだなと。だけど、親父も好きで母親と仲良くやって欲しいって、それだけだよ、俺が思っていたのは。離婚するなら離婚したでいいんだけど、離婚してなぜかまた再婚して、よくわかんないね。3 年前、親父とは和解もできないまま死に別れた。やっぱり叔母と同じで癌。あっという間に死んだ。まさかそんなに早く死ぬとは思わなかった。一年間何も話さずで会った時には死体だったよ。
考えれば、俺が登校拒否をしていた時は随分、親父は送り迎えしてくれたし、色々してくれたことを思いだすんだよね。父親不在だったけど、もう遅いんだけどさ。もっと話したかったね。父と子の話を一度でもいいからしたかった。それは俺の念願だったね。母と父に詩人であることを認めてもらいたかったね。結局はそれが叶わず。
葛原りょう:父の祖父が葛原しげる*36という人で童謡作家だったね。当時、ラジオでよく流れていた童謡を作ったり、西条八十*37、北原白秋*38と付き合っていたね。「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む……」が代表作かな。あとは「飛べとべ鳶、空高く、なけなけ、あとはむーだらちんちの神様……」という童謡を作っていて、厳密にいうと唱歌の時代だね。そういった童謡。ただ、俺は葛原しげるとはまったく似ていない。葛原しげるというのは、ニコニコ元気ピンピン。
葛原りょう:ニコピン先生と呼ばれていた校長先生で人を助けたがる性格は似ているんだけどね。当時、竹久夢二*39にお金を貸したりしていた。夢二から「お金を貸してください」という葉書きも残っている。
葛原りょう:竹久夢二の絵もあってね、それを全部寄付して。家ごと寄付しちゃって俺に残してくれなかった。残してほしかったな。与謝野晶子の手紙とかあるんだよ。それ、売ったらいくらになるのって(笑)。
葛原りょう:お金にずっと困っていたからね。夢二の絵も一枚いくら、それさえあれば俺は本を何回出せるんだよ。
*23 福島泰樹…日本の歌人・朗読家。台東区下谷の法昌寺の住職を務め、コンサートでは短歌を絶唱するパフォーマンスを披露していた。
*24 角川春樹…日本の実業家、映画製作者、俳人。映像・音楽とのメディアミックスによる大量出版で文庫ブームをまきおこす。
*25 山田かまち…日本の画家・詩人。死後、遺作となった詩や絵画を収めた『悩みはイバラのようにふりそそぐ : 山田かまち詩画集』(1992年)で広く知られるようになった。
*26 萩原朔太郎…日本の詩人、評論家。大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称される。
*27 宮沢賢治…日本の詩人、童話作家。 自然や動物との関わり、人間の心の成長、生と死などのテーマを通じて人間の営みなどを描く。
*28 現代詩手帳…思潮社が発行する現代詩の月刊雑誌。
*29 詩人会議…1962年に発足した「詩の創造と普及を軸にすえた民主的な詩運動」を標榜した詩人集団。
*30 詩と思想…1972年創刊。土曜美術社出版販売が発行している月刊の詩の雑誌。
*31 H 賞…日本現代詩人会が主催する、新人の優れた現代詩の詩人の詩集を広く社会に推奨することを目的とした文学賞。
*32 薬師丸弘子…日本の女優、歌手。1978年のデビュー以来、角川映画の中心的存在として人気を博す。
*33 ガンジー…インドの政治家・思想家。非暴力的抵抗や民族運動の指導者として知られている。
*34 マザーテレサ…アルバニア生まれのカトリック修道女。チャリティー活動家として世界的に知られている。
*35 詩のボクシング…ボクシングのリングに見立てた舞台の上で2人の朗読者が自作の詩などを朗読し競い合うイベント。
*36 葛原しげる…日本の教育者、童謡詩人。作詞した童謡は 4000 篇とも言われている。
*37 西条八三…詩人。象徴詩人として繊細華麗な詩風をうたう。童謡から流行歌まで作詞も幅広く手がけた。
*38 北原白秋…日本の詩人、童謡作家、歌人。三木露風と並んで近代日本を代表する詩人であり、活躍した時代は「白露時代」と呼ばれている。
*39 竹久夢二…日本の画家・詩人。数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれた。