ZAZEN BOYS『らんど』
ZAZEN BOYSの12年ぶりの新作『らんど』(MATSURI STUDIO)が発表された。「ついに出たか!」という気持ちで発表前に前作の『すとーりーず』を聴きなおしてみたのだが、音が一切古びていないので、このアルバムが12年前に出たのかという驚きもひとしおである。と同時に、ZAZEN BOYSの活動が既に21年目になっていることにも驚きが隠せない。
ZAZEN BOYSのアルバムは(ライブもだけれど)どれもカッコいいのだが、今回はそれだけに留まらず、正直泣かされた。向井秀徳の生み出す激情的で不条理なる世界観の音楽で泣く日が来るとは思ってもみないことだったが、そんな新作『らんど』を読み解いていきたい。なお、音楽知識はゼロに等しいので、本作を詩集として読み解くエッセイとなることを始めに伝えておきたい。
2024年2月10日(土)、日本詩人クラブの例会では戦時下に翻弄された詩人たちの歴史を詩人の中村不二夫氏に講演していただき、その後は太田雅孝会長が進行を務めて今の詩人たちが戦争について語り合った。語り合いの時はそれぞれの意見を否定することはせずに、互いが互いの言葉や声に耳を傾けて、過去の戦争、そして今起きている戦争に目を向けるかけがえのない時間となったが、その例会の前後で私は『らんど』のリード曲と言える「永遠少女」を繰り返し聴きながら、戦争のことを考えていた。
〈あなたのお母さんは鏡の向こうで笑っている/あなたのおばあちゃんは写真の中で笑っている〉
この歌いだしから既に女三代の歴史が紡がれる。そして、別の視点として語り手である〈あなた〉が何かの資料で見つめたであろう〈1945年 焼け死んだあの娘〉のことを思う。その空想は歌の中で自然と時空を移行して、〈あの娘〉の描写へと変化していく。
〈膨れあがった腹から飛び出た内臓がとてつもなく臭い/それを犬が食う/その犬を叩き殺して大鍋にブチこんで食らう〉
この歌詞のイメージは当然ながら会田綱雄の詩「伝説」を想起させる。この曲はさらに展開を続けて、驚くことだが歌の主体である少女である〈あなた〉にボーカルの向井秀徳自身が〈君は間違ってる 人間なんてそんなもんだ〉と否定し〈探せ〉と少女に叫び続けるというかなり複雑な構造になっている。私の狭い知見で恐縮ではあるが、向井は少女というモティーフを数多用いることはあっても、秘密や俺は知らないという一定程度の俯瞰する態度を示していた。その中でこの曲では否定して語りかけを試みている。その理由なども含めて、一度「永遠少女」を離れて、一曲目から読み解いていきたい。
一曲目「DANBIRA」の歌いだしはZAZEN BOYS・This is 向井秀徳の常套句である〈繰り返される諸行は無常/それでもやっぱり蘇る性的衝動〉である。一見すると人間の刹那的な情感を描き、人間の無為と分かっても湧き上がってしまう性的な欲望や衝動に駆られると読めるが、先ほどの「永遠少女」を聴いた後だと、性的とはエロスではなく性(人の生きること)を現わすとともに性(さが=Saga=運命)を暗示しているようにも感じられる。そんな一曲目「DANBIRA」では〈うしろ向きでぶらぶら歩き〉ながら〈だんびら〉を振り回す者が現れる。〈だんびら〉とは刀のことであり、それを〈健康のためにぶりぶり回す〉奇妙で危険なイメージが立ち現れるが、問題は〈健康のために〉という点にある。〈うしろ向き〉する歩行も過去作「Asobi」などに登場し、更に「新宿革命記念公園通り」という場所も一致する。〈うしろ向き〉とは天邪鬼とも思える反対・反抗が含意されているだろうが、話者の行為は「革命」への反逆ではなく、この行為自体が「革命」であるのだろう。うしろ向きで歩きながら、凶器にもなりうる刀を健康のために回すという修練や鍛錬のイメージへと言葉の価値の転倒を謀っている。もう一つ注目するべきは「知ってる 俺は知ってる/(中略)/全部全部知ってる」とNUMBER GIRL時代の名曲「I don`t know」の反歌ともなるような言葉が紡がれていることだ。これは「永遠少女」への向井自身の応答とも重なり、本作の重要なファクターであると思われる。
「I don`t know」は〈夕暮れ族〉で〈半分空気〉な女の子のことを知らないと距離を保ちつつ、〈マンガを読んで//笑いながら 眠ってましった〉と少女の居場所がマンガであることを空想し、〈笑って/笑って/笑って〉と祈るように少女へ叫び、呼びかけている。
向井はこれまでも少女や女性をモティーフにしながら多くの歌詞を書いてきたが、その多くは知らない、や、秘密、といった言葉で自らの立ち位置とは異なる方位に少女を置いてきていたように思われる。いや、距離が否応なくできてしまったという言うべきだろうか。NUMBER GIRLというバンド名を由来云々を取っ払って考える時、GIRLを歌おうとしながらもその対象に近寄るがあまりに、焦点が合わなくなり、輪郭がぼやけて見えなくなってしまう──その態度を〈知らない〉だとする。すると、ZAZEN BOYSになって、ようやく向井は少女たちを見据えることのできる距離で眺め、歌詞に落とし込むことが叶ったというべきだろうか。
2曲目の「バラクーダ」は固有名詞が繰り返し歌われるファンキーな一曲で、意味を深く追うことは難しいかもしれないが、この曲にも〈だんびら〉が登場し、このアルバム自体が連作なのではという予感をリスナーに与える。そしてサビに当たる部分で歌われる〈ロンリーナイト〉は固有名詞にまみれた歌詞の喧騒の裡に潜む孤独感をお道化て表出しているようである。
3曲目は「八方美人」。〈眠り姫だよ わたしゃ/起こしてくれよ あなたのKissで/八方美人だよ もしかしたら〉と、このように八方美人の可能性を示唆しながら、眠る女の希望というか願いのようなものが描かれている。この女がそのように願うのは寂しいからであり、この点が前曲の〈ロンリーナイト〉から引き継がれている。
4曲目「チャイコフスキーでよろしく」。「I don`t know」でも書かれた〈半分空気〉という言葉がここでも用いられるが、今回は居場所のないというよりも空気にさらわれるように夢中な少年少女の姿を前向きに描き出す。夕暮れ空の溶ける雰囲気や〈あいまい模様に漂って〉いる向井の姿が何とも抒情的だ。この後にも頻出する〈夕焼け〉の赤い情景のイメージと〈俺は泥まみれ〉という感覚は覚えておいてほしい。
5曲目「ブルーサンダー」。3曲目の歌詞〈サンダーロード〉との語彙の連想を感じながら、この歌はもう会えなくなってしまった人や物のことを情感たっぷりに歌い上げる。そして、その人(あるいは人々)との思い出は青空の中で無理矢理暴かれるように胸の裡に去来する。
6曲目「杉並の少年」。「杉並の少年」と「黄泉の国」は新メンバーのベーシスト・MIYAが加入したことがきっかけで、バンドとしての勢いが大風の吹くように押し寄せて書いたとのこと。〈杉並の少年〉と〈ありきたりの風景〉というフレーズをリフレインしながら、途中にふっと挿入される〈不気味に流れる神田川/唐草模様の漂流者〉という異様な情景に胸を惹かれる。〈杉並の少年〉は〈笑っている〉という自分の感情を入れるよりも、ありのまま書くことを採用しており、この歌詞では風景描写のみに終始していることが特色であろう。
7曲目「黄泉の国」。「杉並の少年」に比して、こちらは向井らしい男女のねばついた感じの世界観が色濃く現れている。〈杉並の少年〉が現代の子供らしさを失わないのに対して、〈みぞれ混じりの鼻水を/たれ流しながら泣く子供〉という昭和時代を思わせる子供像が採用されている。また歌詞のはじめに〈運命背負って生きていく〉という言葉とその運命に抗い切れないために〈酔わせて〉〈黄泉の国まで連れてって〉と懇願する吉行淳之介の描くような恋物語が極上のバンドサウンドで歌われる贅沢な一曲である。このような女性を肯定も否定もなく、ただ実直に描くことは「永遠少女」に〈探せ〉といっている女性像の一つの回答であるように感じる。
8曲目「公園には誰もいない」。〈行き先なんてどこにもない〉と立ち往生するような感覚は前曲からも引き継がれている。また、「ブルーサンダー」では去来する想いがわりかし爽やかに表現されているが、こちらでは〈夕暮れさまよって/思い出が枯れるまで〉と消極的な願いが込められている。また「杉並の少年」の最後に歌われた〈公園には誰もいない〉というフレーズがそのまま持ち込まれている点は、8曲目の主体が、かつての〈杉並の少年〉であるかのような錯覚も起こさせる。
9曲目「ブッカツ帰りのハイスクールボーイ」。この曲もどちらかといえば「杉並の少年」のような風景描写に終始した一作。曲の流れとしては男子学生が〈冷めたからあげ〉を食っているだけなのだが、先ほどの〈不気味に流れる神田川/唐草模様の漂流者〉にも相似する〈国鉄電車の線路沿い/あいまい模様のシルエット/ガードの向こうに誰かが待ってる〉という不思議な情景が展開される場面がある。降り出したさみだれの情景や〈八幡神社〉などのフレーズと相まってどこか荘厳な雰囲気すらある。これはただの妄想であるが〈ブッカツ〉とは部活でもあるが仏活でもあるように思え、〈八幡神社〉と合わさって神仏のことを歌っているような気分にさせられる。
10曲目「永遠少女」。5曲目~9曲目までが男性視点を感じる(「黄泉の国」の話者は女性であるが、語り掛けている相手は男性であろうことは察せられる)一方で、この曲は紛れもなく少女、そして女のことを書いている。本作のリードトラックであるこの曲は明確に戦争のことを描いている。〈1945年/焼け死んだあの娘は15才だった//膨れあがった腹から飛び出た内臓がとてつもなく臭い〉という匂いたつような鮮烈さ・苛烈さは聴者の居住まいを正すような力を持っている。
「ブッカツ帰りのハイスクールボーイ」に出てくる〈冷めたからあげ〉は熱の入った肉の果てであるが人に食われるという役目が果たされる。一方、人間の肉の果てとしてある少女の肉も犬に食われて、その犬を生きた人が食べる。この喰らわれた肉の対比は大切に覚えておきたい。
男性の歌がどこか冷めている(あるいは青い)感覚があるのに対して、少女へ与える苛烈さ/その赤さに向井が何を思うか。これは少女自体になろうとするような犠牲の態度でもないことは、向井が俯瞰の距離で少女を見つめることができるようになった点から正鵠を射ていないだろう。向井の態度は歌によって伝播し、自らも「探す」、だから「探せ」というシャウトが響いてくるように思われる。〈探せ〉と言われている少女のことを思えば、聴者である人々がどう感じるか、という点はこちら側に委ねられている。少なくとも筆者はそのように受け取る。
11曲目「YAKIIMO」。筆者の一番の気に入りの曲であるのは、この曲がスポークンワードであるという理由だけに留まらない。この語り手は、焼き芋屋の軽トラックを運転する男であろう。その男の後ろには過ぎ去ってきた風景ばかりがあり、すべての風景は〈赤色に染まっている〉。〈赤色〉の風景は(誤読が許されるならば)単なる夕焼けではなく、まさに戦争によって流された赤い血やトラウマティックな情景に他ならないだろう。
〈男と女と老人と子供 すべてが赤色に染まっている
針金が刺さったような鋭い痛みを感じている〉
この曲には今までの楽曲に現れた風景すべてが走馬灯のように流れては瓦解していくような哀切が詰まっている。生きているのに死んだような夕暮れの赤い風景は向井の胸を焦げつかせるように焼いていく。〈石焼きいも/焼きいも〉という食≒生きるという声が最前にあって、その声は過去の方向へ流れていく。石焼きいもの匂いは甘やかなものであるが、〈夕暮れまみれで気が狂った男が叫んで〉おり、この男は石焼きいもを売る者に相違ないと感じる。狂いながらも歪みながらも夕暮れまみれで泥まみれになろうとも、叫びつづける運命を背負ってこの歌は歌われているのだ──と。少女へ〈探せ〉という代償を、〈スピーカーの音が絶望的に歪んでいる〉ことを覚悟の上で引き受けて、歌っているのだと、筆者には感じられる。
12曲目「らんど」。アルバムのタイトルにもなっている曲で、「らんど」はlandでもあり乱土でもある。この歌詞では泥まみれになっている自らを〈NAMAZU〉であると歌う。まさに女が連れてってと「黄泉の国」をねだるほどに今自らのいる土地が乱れているのだと看破する。手法は違えど、筆者が思い出すのは第一次世界大戦後の社会不安や混乱を見事に活写したエリオットの「荒地」である。
また向井は過去作「サンドペーパーざらざら」のリリックを再度取り入れて遊び心を見せているが、乱土であるのは私たちの生まれた土地を示す産土であるとかなりテクニカルに伝えている。産土の読みは当然ウブスナであるが、読み替えればサンドになる。
向井が自らを喩えたナマズは、地震の前兆を知らせる象徴であり、混乱の予兆・前兆を示してもいる。そして同時に乱れた土地を鎮めようともがきあがく鯰≒念仏(祈り)を唱える泥まみれの魚でもある。
ラスト13曲目「胸焼けうどんの作り方」。どちらかといえば、今までの雰囲気を払拭しようという意志を感じるお道化の入った曲であるが、〈胸焼け〉というワードがやはり夕焼けの赤を連想させるし、また胸焼けうどんを作るにはどうしても犬を喰らうために使った〈大鍋〉が必要なはずなのだ。最後に祭囃子のようなテンポに合わせて〈乱れ散って/ばらばらばらばら〉と歌う。この部分は、祭事は祈りでもあり、同時に政にも通じているということを示唆しているのだろう。最後に向井は何気ない風に聴者へ問いかけている。
〈どげんだっちゃか〉
私たちはどうするべきか。
私はこうした。
私の読み方・聴き方が正しいか否か、あるいはプレイヤーであるZAZEN BOYSにいかにして受け止められるかはしれないし、知らない。向井も『らんど』のインタビューで(特筆して)「永遠少女」が戦争をテーマにした、あるいはタイムリーな曲であるという認識を緩やかに拒んでいた。それでも私はこのアルバムが時代に求められていることを痛感して、こうして、音楽アルバムを詩集として読んでみたのだ。
冒頭に書いたように日本詩人クラブで戦争について語らうときがなければ、このアルバムも「やっぱZAZENは最高だな」と過ぎ去ってしまったかもしれない。でも、このアルバムを聴いて、日本詩人クラブで話したことを思いながら、今でも戦争に巻き込まれて苦しむ人々がいることが胸を去来して、私は初めてZAZEN BOYSで、向井秀徳の歌で泣いてしまった。
深い経験と時間を、そして重いテーマを受け取りながらも、音楽を楽しませてくれたZAZEN BOYSとThis is 向井秀徳に感謝と乾杯を。
(今回の返詩は所属している同人『指名手配』に書いた。出版されたら、ぜひお読みください)
※『指名手配』は文化企画アオサギより刊行されています。
文化企画アオサギ:(http://aosagipoem.main.jp)
(文章:遠藤ヒツジ)
前編:楚囚之詩──翻案