第18編

ポエトリーの覚書

先日(2022年6月25日)、日暮里にある工房ムジカにおいて、とあるスラム・イベントが開催された。坂本樹さん主催の「コトノハ・ラボ」。ポエトリースラムに強くなりたい、をコンセプトにしたイベントで、スラムを実際に開催した後、皆でスラムについて語り合う時間をもつ少し趣向の変わったものだ。
過去にも私が経験した中では、村田活彦さん・向坂くじらさんが主体となって開催したポエトリースラム研究会という催しが3度開催された。朗読をして、自らの思いを語ったり、スラムを行って、感想戦をしたり、貴重な思い出だ。
ポエトリースラムのみならず、様々なシーンは常々集う面々を変えていくから、似た趣向のイベントはどんどん生まれていい。と書いてみたところで、私も自分なりにポエトリー・リーディングへの考えをまとめてもいいのかな、という気がしてきた。多くの先輩詩人たちがポエトリー・リーディングやオープンマイク、スラムについて書いてきている。なので、その方々のお知恵を拝借しつつ、いまの私なりの文章に断章をいくつか公開しておきたい。いずれも結論を持たない曖昧模糊たるファジイな文章ではあるが、皆様のなにかのヒントになれば嬉しく思う。

*スポークン・ワード
あえてジャンル分けをする必要もないのだが、たとえばアーティスト紹介の時に、自分の表現を「朗読」といえばよいか、「ポエトリー・リーディング」と呼べばよいか、はたまた「スポークン・ワード」というべきか迷うことがある。
私見においては、スポークン・ワードはポエトリー・リーディングを包括する大きなジャンルの一括りである。スポークン・ワードは話芸全般を指すので、怪談や落語などもざっくり言えば当てはまることとなる。
ではスポークン・ワードは話芸というが、ポエトリー・リーディング含め、厳密にはどのような解釈でいればよいのか――良く分からず、うんうん唸っている時期もあったのだが、今現在ではこんな風に解釈をしている。
スポークン・ワードとは、「歌唱という技術を用いないで、言葉で聴者を惹きつける実践と試み」である。

*ポエトリー・リーディング
上記のスポークン・ワードの個人的定義を援用すると、ポエトリー・リーディングについてはこんな解釈になる。
ポエトリー・リーディングとは、「歌唱という技術を用いないで、詩と声をいかに音楽化してゆくか、という実践と試み」である。
私は七五調のリズムに載せた近代詩と、ポエトリー・リーディングの差異はここにあると感じる。作曲を伴った多くの七五調の詩は「親-歌」であるが、ポエトリー・リーディングは「非-歌」である。しかし、ポエトリー・リーディングは歌の否定ではない。「非-歌」のポエトリー・リーディングは、歌と(場合により音楽の)ないところでも「音楽」を探る前向きな試みであることを附しておきたい。

*ポエトリーの様々
2022年現在、私の感覚だと朗読やポエトリーといった詩と声のパフォーマンス・アートは主に次の5形式に分かれた、発表の場がある。慣れている人には耳だこかも知れないが、個人的な記録としても残しておく。

① ライブショーケース
事前にイベントの出演者が決まっていて、出演者が決められた時間のパフォーマンスによって場を作るパターン。主催者が謝礼を払って、出演者に依頼することが多い。ノルマ制の場合もある。
ライブショーケースは3分・5分程度が制限時間のオープンマイクやスラムに比して、長い時間のパフォーマンス力が要求される。また主催者から謝礼をもらってパフォーマンスする場合には、主催者・観客の期待に応える必要も他の形式に比して強く潜在しているため、一定以上のクオリティやパフォーマンスの構成力が要求される舞台でもある。

② オープンマイク
参加を希望する者誰でもがステージとマイクの前に立ってパフォーマンスができる形式。希望者が主催者にエントリー費を払って、参加する形式が一般的と思われる。
オープンマイクの魅力はなんといっても「ブラックボックス」が秘められていることだろう。①に比して構成力がなくとも、爆発力やその日の空気や出場者の順番などでもがらりとイメージが変わることがある。そして、ベテランも初めてマイクを握った人も誰もが平等に観客へパフォーマンスができ、どんなものが飛び出してくるか主催者も分からない。もちろん、ヘイトスピーチや明らかな誹謗中傷についてはいかなる開かれた場所でも許されないと個人的に感じていることは書き添えておく。「ブラックボックス」あるいは「ごった煮」、「闇鍋」とも評せるような表現が入り混じり交錯する時間は、その場限りの声のアンソロジーを聴いて読むことができる貴重な機会だと思う。

③スラム
競技形式のイベント。主催者の決定したルールに基づいて、声と言葉でパフォーマンスを行ない、審査員が勝者を決定する。エントリー費を支払う場合が多いが、優勝すると賞金や特典が付く場合が多い。
私はポエトリー・リーディングのジャンルにおいて、オープンマイクとスラムは二つの車輪であると思う。(「文学において批評と書評が二つの車輪である」と語った豊崎由美さんの考えの転用である)当然、どちらにも出演していなければならない、というわけではない。二つのパフォーマンス・アートの形式が対立することなく、同時並行で両立していることが良いのだと思う。
スラムは「囲碁」などと同様の文系スポーツだと思う。脳がフル回転して、一種の興奮状態に陥り、3分間しか読んでいなくても、他者のパフォーマンスも同時に浴びることで、イベント終わりにはどっと良い疲労が来ている。
競技イベントの性質上、勝敗がつく。そのためにスラムのパフォーマンスではどこまで観客や審査員の目や耳を惹きつけるか、が鍵になると思う。共感性やインパクトと言ってもよいだろうか。オープンマイクは自分のパフォーマンス、匂いたつ個性を見てもらい観客がどこかに引っかかることで感想や関係が生まれる。それに対して、スラムは個性の香りを大いに醸しながらも、ある程度こちらへ引っ張り込む引力(エンタメ性・日常性・時事性・切迫感など)みたいなものが必要な感じがする。

④朗読会(自作詩)
自作詩を読むために開催される形式で、現代詩のフィールドで活躍する人にはなじみが深い。①~③は観客がパフォーマンスだけを観るのに対して、この朗読会では事前に読むテキストが観客に配られていて、朗読を聴きながら目で追って読む、というイメージが強い。

⑤朗読会(先達の文学作品など)
グループや一座のような形で数名が集まり、公演会を目的として文学作品の名作などを読む形式。私はこの辺りに明るくないので、間違っていたら申し訳ないが、朗読の漫画『花もて語れ』を読んでいるとそのようなイメージを強く抱く。

その他、レセプション・パーティーでのパフォーマンスや現代芸術とのコラボレーションなど、様々な形式を数え上げれば細分化はキリがないが、大別するとこんな感じだろう。もちろん、イベントを一層盛り上げるために、ライブショーケース+オープンマイクなど複合的なパターンも多く見受けられる。


*スラムの評価
①~⑤の内、私が日常的に接するのは「ライブ」・「オープンマイク」・「スラム」であり、オープンマイクについては詩誌『指名手配2号』に記したことがあるので、今回は「スラム」に注力して、もう少し話を進めよう。
スラムはそれぞれの審査員や観客に評価が委ねられるため、明確な基準を持たないと思うし、そこにはかけがえのない魅力があると感じる。その魅力は後述するとして、「私はどう評価するか」ということを書いていこう。

◎評価の原則
パフォーマンスを評価する時、積極的な減点方式でなく、鷹揚な加点方式でもなく、個性の振り幅を見る。
たとえば、テキストを持つ手の震えを「素人の緊張」として減点してしまうことは容易いがその場や読んでいる空気に個性としてマッチしていれば、それに対して加点する場合もありえる、というような具合だ。

◎身体パフォーマンス
身体パフォーマンスは「静的⇔動的」の横軸を配した上に、以下を縦軸で評価する。
・静的なパフォーマンスの場合、佇まいに不安や恐れがなく、凛としているか。
・動的なパフォーマンスの場合、ステージを動き回るようなアクティブさ、そこに惹きつけられるものがあるか
・テキストと雰囲気がマッチしているか
・緊張と緩和のバランスはどうか
・緊張と緩和が偏っていることの感動はあるか

以前、ラッパーやお笑いなどを経験した方から、スラムでテキストを持つことは有効かみたいな話が挙がったことがある。私個人の見解では「人による」としか言えない。私はほぼ毎回テキストを携えて朗読するが、これは敬愛する詩人の朗読姿勢に倣っていることと、一度紙に定着した言葉をその場に再生・再解釈させるための態度である。もちろん、オールドスクールスタイルへの憧れも、暗記しようとしない言い訳も、朗読譜への敬意もそこには含まれている。私個人はテキストを持つことでパフォーマンス力が損なわれるとは一度も考えたことがない。そして暗記・暗唱ができなくても、言葉をもっていれば多くの人が始められる間口の広さに心打たれてこのジャンルに身を投じたことも関係していると思う。
雰囲気という曖昧なものは本当に大事で、たとえばクラシック・コンサートで楽譜も読まずアグレッシブに動き回るのが不自然なように、音楽でもジャンルによって佇まいが異なる。そのように、ポエトリー・リーディングには一人一人の中に細分化されきらない個のジャンルが根付いていると思う。一歩も動き回らない人間と、所狭しと駆け巡る人間が鎬を削るのは音楽のコンペティションなどでも起こりえることであろうし、個のジャンルはポエトリー・リーディングだけに留まらないことかもしれない。

◎声調
声の調子については「素読⇔劇的」を横軸にして、以下を縦軸で評価する。
・素読で読まれる作品は平熱がマッチしているか
・劇的に読まれる作品はエモーショナルを欲しているか
・身体パフォーマンスが耳に入る言葉を邪魔しないか
・発音・発語は滑らかか
・「叫び」がある時、その必要性は?
・嚙んでしまった場合、そのことを気づかせるか否か

パフォーマンスする時、私は声で演技してしまうことがある。それが正しい時もあれば、可能な限り普段の自分の声に基礎を据えて朗読する時が最善の場合もある。また身体パフォーマンスやシャウト、叫びによって紡がれてきた声が不意に断線してしまうことはないか。「噛む」ということへの評価はいつも迷う。例えばタイマン勝負で評価に悩んだ時に噛む回数をマイナス評価とするか否か。私個人は噛んでしまった時はなるべく気づかれないようにあえてリフレインのように繰り返して取り繕ってみせるのだが、それが最善とも思えない。とそんな風に思うのは「GOMESS vs CHEHON【真ADRENALINE】3回戦第3試合 (ベスト8)」の動画でCHEHONが噛んだ時のGOMESSのアンサー「ようやく噛んでくれた。つまり今言いたいこと言えた。それがなければやっぱつまんねえ」という言葉に心底納得しているからだ。人は言いたいことを語る時に言葉に詰まる。それは言いたいこと以前の様々な思いが濁流のように喉元に押し寄せるからだと思う。流暢を得意としない私にとってはそれこそが希望だと感じる。だから「噛む」という失点と見えてしまうものへの判断をいつも決めあぐねている。

◎テキスト
詩やパフォーマンスの内容については「具象的⇔抽象的」を横軸にして、以下を縦軸で評価する。
・具象的な作品は普遍性・共感性・独自性を備えるか。
・時事が盛り込まれている場合、そこに独自の視座があるか。
・抽象的な作品は輪郭や本質を掴むことができるか。
・音声遊戯の性質を色濃く備えた抽象的作品は声調によって、独自性をいかんなく発揮できているか。
・リフレーンや山場はあるか?
・いまこの場所がこのパフォーマンスを希求しているか

特に活躍していたわけでもないが、私は現代詩から出発してポエトリー・リーディングを始めたクチなので、個人的にはテキストを最も重視している。と同時に現代詩のテキストそのものをスラムに持ち込むことはあまり有効だと考えていない。以前、インタビューを受けた際にも語っているはずだが、スラムは審査員のジャッジもインターバルが短いため、熟読・熟考したり、再読することで深みを探らせるタイプのテキストでは中々苦戦を強いられる場面が多いだろう。そのために引力(エンタメ性・日常性・時事性・切迫感など)のごときものが必要なのだと今の私は解釈している。引力を生み出す磁場として普遍性や共感性や時事性を散りばめて、リフレーンやクライマックスの演出技術によって主題の楔を聴者の心にトンと打ちつける。山場とは物語の最終場面・オチなどに留まらず、声の熱の帯びる様子でも十分表現できるので、そういった意味での山場だとご理解いただきたい。
しかし、その引力や技術だけで勝とうとするのは早計だろう。引力は匂いたつ個性を失うことでもあるので、私はその点を評価基準に入れながらも、何より独自性を尊重する。引力によって多くの観客の前にイメージが沸き、空想のスクリーンが立ちあがる時に、そのイメージが凡庸のもので終わってしまっては、つまらない映画や小説を読んだのと同じだ。心に打ち込んだ楔から、匂いたつ個性をもって観客をじわじわと侵す。パンチラインで打ち抜くといってもいいだろう。
テキストの独自性を尊重しつつ、惹きつける引力の他、韻や節回し、語彙や知識の豊富さを技術的な面として加点項目とする場合がある。
音声遊戯的な作品はかなり技術力・表現力も試されるうえに、観客の理解が追いつくか否かがパフォーマーには判断できないので危うい賭けのような感じもするが、それで評価を得られた時の自信は揺るがないものとなりそうだ。

*スラムの魅力
スラムの魅力は勝ち負けではない。もちろん勝ち負けも重要な要素ではある。勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。当然だ。でも個人的に感じるのは、勝ち負けは1回のポーカー勝負に過ぎず、また次また次と繋がっていけばいいものであって、勝ち負けの拘りを捨てきれないでいて、負けが込んでしまうと嫌な深みに落ちてしまうこともあると思う。こんなことを書いていると私よりスラムにのめりこむ人に怒られそうだが、少なくとも私はそのくらいの心持ちでいる。悔しさは翌日まで引きずらない。そして、悔しさを暴力に変換しない。
さてスラムの効用・魅力はどこにあるか? 自らを鼓舞する機会となる? オープンマイクやライブショーケースにはない気迫あるパフォーマンスを出来る/体感できる? 誰かが優勝するまでのプロセスに感動する?
それらももちろん欠かせない要素だ。だがなにより私が魅力を感じるのは「揺れ動く曖昧な基準」にあると思う。ここまで読んだ人は、私の曖昧な態度や、歯に物が挟まったような言い草にうんざりするかもしれないが、本質的にスラムは基準が曖昧なところがいい。
先ほど書き出した評価基準だって、私が感覚で捉えていたものを言語化してみたに過ぎず、本来はもっと曖昧にざっくりと判定している。本音を話してしまえば、スラム前日に起こした会社での失敗や成功、家族との何気ない会話、スラムの会場まで来た道程で見た景色、それらすべてが評価に僅かながら影響してしまう曖昧さ・弱さがスラムにはあっていいと思う。それは出場者も審査員も観客もすべてに当てはまる。
そして「曖昧な基準」とは、一人一人が抱える背景を含めて心がいつだって揺れ動いている証左であると思う。仮に審査員の一人が「先週、ひまわりが好きな母が入院したから、思わずひまわりという言葉に反応してしまったの」というように、一人一人の心の揺れ動きを瞬間的に照射することができる。その点はオープンマイクと似ているような感じもあるが、スラムは引力が散りばめられているため、そして審査しなければという緊張感ある傾聴の態度故に揺れ動きに敏感になるのだと思う。オープンマイクの緩和状態にある傾聴とはまた異なる態度だ。

*最後に
以上、ポエトリー覚書として、私の感覚を可能な限り明文化してみた。
仕事や決められたことをする時に、私は基準を愛するし、それによって仕事が円滑化することを心より歓迎している。しかし、ことポエトリーに関しては人の心が分からないから、その人の内側(心)に委ねてしまおうという感じがある。それが正しいことかはまったく分からない。ここまで書いてきたのは、私個人の心の揺れ動きを活写した結果である。
今回は返詩という形ではないが、一編を付す。


(写真撮影:道山れいん)


詩「SLAM50音」

藍色に染まった詩は胡乱虚ろなウロボロス エゴを超え 尾を加え
形なきもの結わえ 聴くは易く けだし深し わが鼓動を称え
讃美の裏側に 死屍累々 酸い香り せからしい世の 蘇生試み
高らかに わが血を述べ 常世は造り欠けの花 手々で産んだ蝶々 メルヘンへ飛ぶ
何もなくとも 風吹き雨に濡れ 涅槃を待つ脳へ這いずる欲動の声
歯も浮き世にごそごそ鳴り 久しい麩の噛み応え へっぴりの尻叩き 咆哮を定める
真白く身じろぐ 無辜を汚し色どる 眼と耳の侵し 桃と泥のかぐわいと触り
やはき命に口づける ゆかしきときは一期一会 陽光照る照る命が満ちる
来訪を待ち鈴々の鈴虫 留守の家 檸檬一つ 私はいま路傍に涙とつぶやき落とす
輪になって散らばり 気づけばまた集い ちいさく深く沁みいり吠える わをんの音


(文章:遠藤ヒツジ)

前編:バイロン作・小川和夫訳『マンフレッド』
次編:永井玲衣『水中の哲学者たち』

『光よりおそい散歩』

 


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