第1回

第1回 橋本ハム太郎の光宙(ピカチュウ)君という名前はやたらと馬鹿にされるがじゃあ白竜という名前の役者はどうなんだの巻


妻のお腹の子供がもうすぐ9ヶ月になる。

慌ただしく出産の準備を進めながら、子供の名前を考えた。それで、一応うちの子と同じ名前の子がどれくらいいるだろうかと思い検索してみるとYahoo!知恵袋で名付けの相談をしているのをたくさん見つけ、読み、腹が立ったので今日はそれについて書く。

質問で多いのは「この名前(漢字)は読めますか?」もしくは「変じゃないですか?」というものである。そしてだいたいがいわゆるDQNネーム、キラキラネームとカテゴライズされかねない名前が挙げられている。そういった質問に多く寄せられるもの、それが否定の回答だ。DQNネーム、キラキラネームというものに対して、どうして人はこうも否定したがるのか。例えば、

迷走してますね。全部読めませんでした。込めた思いの意味や情景などもよくわかりませんでした。複雑だったり、色々な思いを込めすぎに、シンプルにしたらどうですか?それとも、画数に惑わされてしまったのでしょうか?厳しい意見で申し訳ないですが、真剣にほかの名前にすることをおすすめしたいです。キラキラネームだと思います。迷走する前にあげていた名前を見直して原点に戻ってみたらどうですか?

とか、

よめなーい。ドキュン名前って、面接で落とされるらしいよ。子供の事考えてあげて。

とか

私ならそんな名前つけられて物心ついた時には自殺しそうですのでDQNですね。響きも悪いしダサいし親のセンスの無さがにじみ出てます。

など、やかましいにも程がある回答ばかりで心底うんざり。まあYahoo!知恵袋に相談するのもどうかと思うが、しかしこの回答者たちの薄っぺらい保守性はなんなのだろうか。だいたい、例えばアメリカなんかジョンとかジャックとかマイケルとかサムとかトムとか同じ名前ばかりで、フランスだってピエール、ミシェル、フランソワと同じ名前ばかりをつける文化で、名前が多様であるというのは日本独特、なのか中国由来なのか知らないがとにかく日本人は多種多様な名前を持つという文化が昔からあって、そんな多様性を持った文化に対して今さら「人名とはこういうもの」などと杓子定規な考え方を持ち出す方がナンセンス。

わたしの曾祖父母世代くらい、つまり今100歳前後くらいの世代だと、「タマ」とか「イネ」とかそれ人名?猫の名前じゃないの?という人が大勢いるわけで時代によって名前というのは移り変わるものなのである。カタカナが平気で使われる時代。それに比べたら当て字の方がまだまともですらある。

DQNネームやキラキラネームと蔑称されるような名前をつけられると虐められるだの就職に不利だのという批判も意味不明で、それは完全に当人ではなく周りが悪い。どうやったら名前で差別しないようにするかという話なら分かるが。というか、名前で虐めたり不公平に扱う人がまさにYahoo!知恵袋で回答しているわけだ。倫理観が腐っていますね。

常識という身勝手な価値観を壊された時に怒る人がいる。だから他人の子供の名前に口出しして、ましてや虐めてやろうなどと考えてしまう。あまりに醜い。そこは一旦冷静になって、ちょっと想像して見よう。山田ひろし部長より山田コスモス部長の方が楽しいでしょ?田中ゆうすけ課長より田中ライオン課長の方が絶対いい世の中でしょ?自由じゃん。

◯◯商事株式会社 山田コスモス部長様

平素は大変お世話になっております。△▽の田中です。

先日のご面談の際に提示いたしましたA案件の見積もりができましたので送付いたします。ご多忙の折に大変恐縮ですがご査収の程をお願い致します。

△▽株式会社 営業部 課長 田中ライオン

ほら面白い。

落語の『寿限無』は元祖DQN、キラキラネームネタといってよい。これは親の愛が強すぎて縁起の良いものを全て繋げてしまい、寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の水行末・雲来末・風来末〜ととんでもない長名になってしまう、というあまりにも有名な噺だが、かつて立川談志が「落語は業の肯定」と喝破したように、この噺の最も重要なところは、子供に対して願いを込めすぎてしまう親の「業」を滑稽なものとして描きつつ、しかし登場人物全員がその長い名前を否定せずしっかりとフルネームで呼び続ける、という世界観にある。

名前を馬鹿にされる、名前のせいで虐められる、などという描写はなく、あるのは長すぎる名前のせいで起きる笑い話だけ。そしてそんな名前をつけた親も、その後も普通に長屋という共同体に受け入れられている。まさに業の肯定。ぺこぱがノリツッコまない漫才で一世を風靡したが、何年も前から落語『寿限無』は「名前長いけどでも良いだろう」の価値観だった。

だからDQNネームやキラキラネームをつけちゃうのも人間の業。それはもう、しょうがないものなのです。そして一方で、変な名前の子供は虐めて、自分の子供には当たり障りのない平凡な名前をつけてあげるのが愛、と考えるのもまたひとつの業(でもおれはこんな考え方は肯定しないけどネ)。

そしてそれを高みから解説した気になっているわたしも業の塊、愚かな存在なのです。なにが親になるだ、気持ち良くなって中に出しちゃっただけじゃないか、ゴムをつけろ馬鹿野郎、という話。

でもそれで生命は続いてきたって話。ちゃんちゃん。

 

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『橋本ハム太郎の才能を呼び起こす超習慣術2.0』

橋本ハム太郎