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橋
秘密を曝けだす
ほどに深く青い
空のましたに
もえる緑の野の原が広がり
柔らかな白いコットまとい
身をひるがえし笑っている
七人の美醜揃えた女は
時に六人の男に転身する
誰知らぬ時に不意に転ずる
(美しい小川に小橋が架けられ)
もえる野の原で
あまい糖蜜をすする
花びらに似た蝶々たちが舞う
大きい獣も小さい動物も
互いに互いの香ばしい体臭を嗅いで
いななき愛らしくおらびあう
七人の女は花も虫も摘みはしない
六人の男は獣たちを狩りはしない
みな糸目になって笑いあっている
(小橋は油膜に覆われ虹の色彩を垣間みせ)
女が花の匂いを悦べば
花はいっそう咲き乱れ
女を包む優しい寝床となり
男が腰に携えた角笛を吹けば
空の雲も白樺も鹿も鼠も喜んで身をふるい
天上からは野の原を賛える雨が降り注ぐ
(小橋の向こうはやせほそり
誰もが無数の橋をたやすく渡る)
七人の女は
天上の光彩に照らされ
祝福されて乳白色の湖にて身を洗う
獣たちは女たちより
深く森を駆けることがあるが
美しい小川へは決して近づかない
(小橋の向こうは歩行する森が重なり倒れて
白い目の幼子は森から糧をかすめとる)
六人の男は
緩やかな砂地の丘を素足で駆け下り
競争するが優劣はない
虫たちは男たちより
深い森の先にいってしまうことがあるが
美しい小川に近づくと不意に身を返す
(無数の橋をたやすく渡る遅い歩行者
美しい小川の先を求めていたはずだが)
もえる野の原の深い森
その先に美しい小川が流れ小橋が架かる
あちらからは見えない小橋
(やせほそった土地からは
決してみえない
千々に砕けた太陽を信仰する者には)
七人の女は舞い踊り
六人の男は転身した喜びに諸手をあげて
(大鷲が硬い糞を落とし
鰐亀が回転し飛んでゆき
丹頂は嘴で柔らかな肉を突き
甲虫は恐るべき速度で壁を貫く)
七人の女は舞い踊り時に六人の男に転身し
(小橋の向こうのこと
小川の美しさの向こうのこと
灰と火の粉が舞いつづけ
太陽も月もモザイクがかかり
人々は千々に砕けた太陽信仰を依存して
人々は遅々に歩む足先を白い目で眺め)
(美しい小川に架かる橋の先
無数の橋から橋へたやすく渡る
移動を繰り返す
冥府への途土から土への途首から首への途
小川がいつでも頭の中で流れる、その希望に凭れて
小さな太陽へ眼球を差しだし、いずれ砂塵に紛れる)
『ただ、影に何かがあるものにはしたいので「AがAですよ、よかったですね」ではなくて「AがAだけど、かっこでBがついている」としたい』
2.創作の方法について教えて下さい
遠藤ヒツジ:詩はリーディングと現代詩といわれるような硬いのも書きますが、リーディングだとリフレイン*5や言葉を一聴してわかるぐらいの言葉をなるべく選択するようにしています。難しい言葉をあえて使ってトリップさせる技術もあると思うんですけど、例えば、”進言した”をリーディングで使うとよくわからなかったりする。
その場合は、”進んで言った”とか単純に”言った”とか、簡略化してつまずきをなくしてあげる。ただ、どんどんと韻を踏んでいくようなリーディングの作品だと逆にそれは必要ないかもしれないですね。ある程度、詩の内容や言葉を聴かせてあげたい時は、そのつまずきをなくすように書いています。ただ、それをテキストに起こすと弱かったりする。文字で読むと弱いので、言葉の硬度みたいなものをあげて、詩の全体の文意、枠組みは変えないで、現代詩らしくする。そういう点で変えることはありますね。
遠藤ヒツジ:リフレインが文面だと生きてこない場面があって、例えば、J-POP の歌詞でも2回繰り返しているのに、歌詞カードには1回しか書いていない時もあるじゃないですか。確かにあれは2回書いても意味がない。ただ、同じことを2回繰り返しているだけという場合があって、リフレインがテキストでみて面白くない場合は、そこのリフレインを省いちゃいます。省いて別の言葉を入れたりします。
遠藤ヒツジ:そうですね。声で聴かせるというところでリズムを考えると、リフレインは強くて用いやすい技術だと思うんですよね。リズムを持たせることで他の素地の文章が生きてきたりする。やっぱり緩急が必要じゃないですか。平熱でずっと読んでいるのもありかもしれないですけど、それって逆にものすごく技術がいると思う。自分の場合は、やっぱり見せ場を作っていくのは必要なのかなと思います。
遠藤ヒツジ:現代詩の中でも日常や今起きていることを素直に書きだすような詩もあれば、周りにキャリアの長い学ぶべき詩人が多くいると、もうちょっと背筋を伸ばして頑張ろうかなと。神話を調べたり、自分にはバックボーンとして聖書の知識があるので、それを基に書いたりします。なので、発表する媒体によって、ちょっと書く趣向を変えるようにしています。リーディングで書いたものを現代詩の方に載せたい時は、書き直す場合はありますね。
遠藤ヒツジ:どこに出すかが見えている時が多いので、今度のイベントで朗読する、スラムに出場する。要は誰が見てくれる、誰が読んでくれるかを基に自分をカスタマイズしますね。
遠藤ヒツジ:そうですね。その辺りがもっと器用にできるようになれば、本当に読者が望んだものをアベレージ高く出せるような気がしますけど。
遠藤ヒツジ:そうだと思います。もちろん、自分が書いているので自分が主体になるんですけど、発表する先が見えている方が、どちらにも納得したものが出せるような感じがします。現場に出る前に宅録でぼそぼそと声を録って、その後ろに無料で作ったような音楽をつけて CD に焼いて20枚ぐらい、とりあえず配ったことがあるんですけど、やっぱり今聞くと「なんで、こんな声が暗いんだろう」って(笑)
遠藤ヒツジ:それでもいい作品を創れる人がいるのは前提で、僕としてはすごい内省的に思えるんですね。内寄りの作品がハマる人もいるけど、今の僕としては慣れてきたというのもあるけど今のスタイルの方が良いですね。
ただ、うまく書けない時はそんな風に考えられない。がむしゃらに書くこともあります。最近、小説を書く機会が減ってしまって昔は200枚,300枚と書いていたんですけど、最近書き方がわからなくなってきた。でも、そういう時はリハビリ的に三題噺。お題を3つ出してそれを話にする。即興でやるようなこともありますし、ネットにお題を生成するサービスがあって、それで3つだしてとりあえず書いてみる。
詩を書く時でもやりようがあります。詩が書けない時に適当に出して、それを無理やりつなげる。三大噺のテーマで最後は出さないといけないわけではないので、最後に削ってもいいわけじゃない。
遠藤ヒツジ:そう。書き始めるのに時間がかかるんですよね。書き始めるとわりになんとなく方向性が見えてきて「ここで落とす」が見えてくる。最初の時点で最後まで見えている場合はほとんどないですね。「最後にどうなるか」は自分の中でわからないで書いている時があります。
遠藤ヒツジ:長いものを書くとそうなります。途中から齟齬が生まれてきて、最終的に修正する。僕はプロット*6をあまり立てないんですよね。本当はプロットを立てた方が計画的に書けるのでいいと思うんですけど、プロットを書く時間があったら本文を書き始めちゃう。突貫工事でもなんでも筋を通しちゃって、形にしちゃってから齟齬を直していく書き方をよくします。
遠藤ヒツジ:プライベートも仕事もバタバタしてきたので、あまり自由に書ける時間、半日ずっと書いていられるような状態が少なくなった。ただ、そういう時に重要なのは締切りです。締切りはやっぱりありがたいなと(笑)
締切りがあるとどうしても書かないといけないじゃないですか。締切がないものは永遠に書けるし、書き始めなくてもいい。そういう意味でコンテストがたくさんあるのは、良いと思うんですよね。やっぱりモチベーションじゃないですか。文学フリマ*7の友達の話を聞くと、コンテストに出してみてダメだった場合の方が多いんですけど、ダメだったものを集めて作品集として出す、そういうルーティンをやっている人もいます。
賞に出せるというのは希望だと思います。どんどんと増えていくといいなと。気軽に出せる賞がもっと増えていいと思う。どこかで賞を獲った時点で可能性が広がるじゃないですか。そこから直で作家になれますとはいかないですけど、やっぱり実績を持つのは個人的に重要だと思います。無名の新人から持ち込みでデビューなんて今めったにないですからね。京極夏彦以来、聞いたことがない。彼は伝説的でしたけど、今は本当に大変だと思いますよ。フォロワー3万人いなきゃいけないとか人気がなきゃいけない…。「そんなの出版社でやってくれよ」と思いますけど(笑)作家も努力するのはいいけど、営業の仕事だと思うんですよね。
…話を戻して、創作の方法はそうですね。先をみて自分の調子を合わせていくことが重要かなと。
遠藤ヒツジ:ずっと書いているのが不気味なもの。僕、怖いものは苦手なんです。お化け、殺人鬼がどうとかのホラーは得意じゃないんですけど、「裏で何が起きてんの?」といった不気味さ、さっき話に挙がった村上春樹もそうだけど、奥に何かがある…見えていないものがあるのが好きで、小説は割に手触りのざらざらした読後感のある腑に落ちない作品を書くのが好きです。
前は詩もそんな感じで、それこそ激しいリーディングをやるようなテキストを書いていたんですけど、リーディングで聞きやすい詩にしていると道徳的になってきた。ただ、影に何かがあるものにはしたいので「AがAですよ、よかったですね」ではなくて「AがAだけど、かっこでBがついている」としたい。それは人に余韻を残す作業だと思う。道徳で全て説明できて終わりに見えるけど、「どこか影があるよね」という詩を作りたいですね。
現代詩でも全く訳が分からなくて放り投げちゃう詩、パンチラインがあって何となくリズムで読めちゃう詩があります。「これってこのこと言っているんじゃないの?」と分かった時に一気にスッと背骨が入るパターンもあると思います。
遠藤ヒツジ:「道徳的にみえるけど、言っていることすごい気持ち悪いね」とかね(笑)
遠藤ヒツジ:そうね。童話、寓話とかああいうような余韻を残せればね。最近知った作家で Shirley Jackson、日本だと早川*8や創元推理*9のSF文庫ででている作家なんですけど、その作家は短編小説を書くのが得意なんです。彼女の作品で面白かったのが”ある主人公の人が誰かを待っていて、パーティかなんかで2人で食べる食事の用意をしていたんです。そこに待ち人の恋人がやってきたんですけど、男の人を連れてきていて、要は2人で会うはずだったのに3人になった。連れてきた恋人と訪問者の2人が家の主体になっていく。最初、語り手の主人公の家だったのに、だんだん家が侵されていく。それで、最終的には語り手の主人公が恋人の方の家にいってそっちに住む”みたいな話です。
遠藤ヒツジ:ああ、そうそう。そういうのが好きなんですよ。別に怖くはないじゃないですか、ただすごい不気味というか。村上春樹も好きなのはそれで、ホラーじゃないけど、ものすごく不気味な作品を書ける人で、それこそユング心理学あたりの無意識とかああいうところに踏み込んでくれるような書き方と感じています。
遠藤ヒツジ:そうですね。SFはそんなに得意じゃなくて、宇宙の論理を持ち出されると分からなくなる(笑)SFを読める人はすごいなと。中には自分の波長に合ったり、ただ単に面白いなと思えるのはたくさんありますけど。
遠藤ヒツジ:そうかも。素地に根本に入っていけなくなるのが難しいですね。ある宇宙船が難破して、別の宇宙船も難破しちゃった話で異星人に凌辱される、文としてはそんなに詳しく書いていないんですけど、断片として描いているものがあって、あれは面白かった。新奇性がある。
怪奇現象物は波長が合うのかもですね。「なんか、起きてんな」ぐらいがいいんですよね。
遠藤ヒツジ:そうですね。人に共感されやすいものが多いと思うので、併せて詩で昇華できたらいいなとは思います。
遠藤ヒツジ:最初、現代詩に特有の詩をデザインする方法も憧れてやってはいたんですけど、意味の繋がりがなくて闇雲にやっていると大失敗するというのが何となくわかって。意味がない時ってあるじゃないですか。例えば、「この文字は何で下にいってんの?」と。これを説明できないとなると難しい。それでも押してくる勢いのある作風もあるんですけど、やっぱり自分の中で腑に落ちていないと成り立たない。カッコいいからやっているだけでは意味がない。
だから、その辺がわかっていなかったなと。以前作成した詩集『しなる川岸に沿って』は編集として佐相憲一さんに入ってもらいました。その人も詩人で詩集をずっと作ってきた方なんですけど、「現代詩のエクスクラメーションマークを羅列するとかそういった作品も好きだけど、人に響くのはそういうことじゃないと自分は思っている」と話されていて、編集の立場にあって色々とお話しをさせていただいた中で「僕の詩の本質はそこじゃない」と言って下さいました。
遠藤ヒツジ:それより前に自分なりに詩集を2冊作って、ご好評の声もありましたけど、賞レースにも全くのってこないし、自分の中でも小さな世界で終わってしまっていたんだって。せっかく出版社にお願いするんだから基本的には任せる。自分の我を出さない。
自分の審美眼をあんまり信じていなくて、自分の中で「これは、すごい良いな」と思っても評価が違ったりする。それって周りに見る目がないより僕は自分の見る目がない感覚の方が強い。
自分でやらなければいけない状況であれば自分で編集するんですが、せっかく編集もやってくれるんだったら、人に審美眼を託した方がいいのかなと。自分なりの基準があって自分の作品を創るのはもちろんありですけど、やっぱり他人の目が入るとよくなると思います。ある程度、人に委ねる。それはその人を信頼することにもなります。詩も小説も僕よりうまい人はごまんといるので、共同制作になればその人の意見を尊重する気はしますね。
遠藤ヒツジ:そうですね。あまり譲れない感覚がない。「絶対、これじゃないと良いものにならない」という自信がないのもありますかね。すみません、こだわりがなさ過ぎて(笑)
遠藤ヒツジ:そうですね。お互い自由にやっていた方がいい、最低限のことだけ聞きあう。個人的には人との付き合い方としてもそういう方が楽ですね。
*5 リフレイン…韻文で、同じ句を繰り返して用いること。一節の終わりの繰り返しをいうこともある。
*6 プロット…物語の筋。しくみ。
*7 文学フリマ…2002年から始まった文学限定の同人誌即売会。
*8 早川…早川書房。1945年に創業された出版社。1970年にレーベル『ハヤカワ文庫』を始める。
*9 創元推理…東京創元社が1992年から2003年まで発行していた年刊または季刊、年2回刊の文芸雑誌。