遠藤ヒツジ


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音楽は血のように流れる
(現代詩手帖2018.2佳作)(2018/1)


幾億かぞえきれない
足跡の響かせた
地上の音楽をひろう
(春をひさいだ者への挽歌)

汐に惹かれてまろぶ幼児や
月に帰れずにうつむく姫や
失声故に嘆きもしない女の音楽をひろう
(夏の盛りに踊りでる者への挽歌)

日々の生活が波に隣りあう老夫婦や
朝陽を待つために立ちつくす恋人や
岸壁から青へ飛びこむ少年らの音楽をひろう
(何処から吹いたか海辺の紅葉の挽歌)

地上の音楽をすてて
見果てぬ青に身を落とす鮮やかな光が
音楽をひろう耳に警報を鳴らす
(冬枯れの寂しい岸辺失われた足跡の挽歌)

かつて浜辺を行き来した
数多の幾重の足跡
一歩一歩の記憶に
音楽は血のように流れる

痛みでなく、体内を巡る
生命の躍動、そのための
音楽をひろいあつめて
こころの非常出口をさがしつづける

足跡、
風の道、
声の響き、
人々の表情、
海辺を染めるのは血のように巡る、
たくさんの音楽

波音を抱えた貝殻を拾い集める興奮の足跡。
汀へ我先にと駆けだす力強い足跡。
夜がひらけ日ノ出を待つ大きな足跡。
あまた上書きされた足跡。
それらが確かに響かせた、地上の音楽を拾う。
きされた足跡の響かせた地上の音楽をひろう。


『辛かった時に「その場に居ていいよ」と言ってもらえるところと僕自身は SPIRIT を捉えています』

6.詩や小説をやっていなかったら何をやっていると思いますか?

遠藤ヒツジ:文章を書いていなかったら今は能動的な態度ですけど、多分、受動的な態度しかしない。映画をただ観ていたり、漫画や小説を読んでいたり、表現することはないと思います。音楽もやっていないと思いますし、他のスポーツもやるかと言われると、そうでもないと思う。

-「なぜ、創作をやっているのか」と繋がる話かもですね。

遠藤ヒツジ:そうですね。別に創作ってやらなくてもいいと思うんですよね。お金が発生しないし、日本で生活するのに必要なのは衣食住、それに関するお金、趣味自体が無駄なものなので、やらなくても生活自体は成り立つんですけど、詩や小説はある程度メンタルヘルスな部分があると思っていて、自分の中の考えとかモヤモヤを吐き出す作業というのが強い。

-なるほどです。

遠藤ヒツジ:今 SPIRIT*17 という朗読のイベントを伊藤くんとやっています。以前は大島健夫*18さんとURAOCB*19さんが主催されていて、その時に僕は初めて行きました。その頃は自分自身の状態があまりいい時期じゃなくて、実家の仕事を手伝い始めて、前の仕事が結構キツくて辞めちゃっていて。「新しい刺激はないかな」と探していた時に朗読の活動を見つけて、定着したという経緯があります。そういう状態の時に必要なのは吐き出せる場所、辛かった時に「その場に居ていいよ」と言ってもらえるところと僕自身は SPIRIT を捉えていますし、急に来なくなっちゃう人もいるけど、10年後とかにフッと戻ってきてもいいような場所にしたい。

「ポエトリーリーディングのイベント『SPIRIT』」

そこには、自分自身がそういう場所に居たいという想いがある。急に「ノルウェーに行かなきゃならなくなった」として、20年後に戻ってきた時に新しい人が増えていても受け入れてくれる、そういう場所が自分的には欲しくて。生きていく上で衣食住以外は基本的には無駄だと思っているんですね。それこそ、仕事をやらなくて衣食住が保てるなら、仕事すら無駄だと思う。

-それさえあれば、生物的には生きていけますよね。

そうそう。そうなると「全て不要不急じゃねぇの?」と。経済という動かなきゃ死んじゃう生き物がいるからやっているわけですけど、基本的に僕の活動は不要不急で無駄なことだし、社会に役立つことでもないんだけど、自分のメンタルヘルスとして必要なものです。急に「創作をするな」と言われたら、調子が崩れると思う。

-必然性はありますよね。

遠藤ヒツジ:「締め切りがあって…。」と言いながら、書くこと自体がメンタルヘルス。締切だから自発的に書いているようには見えないけど、心のバランスをとるために書くような感覚がありますね。「やるな」と言われて3ヶ月ぐらい全部取り上げられたら慣れてやらなくなるのかもしれないけれど、今の自分の感覚としてはそういう風には考えていなくて不要不急だけど必要なものです。

-生活における行動のひとつですね。

遠藤ヒツジ:「詩を用いて社会に問いたい」まで強い危機意識みたいなものを持っていなくて、どちらかというと、のほほんとしているから個人としては自分に対することで精一杯。そこに社会的な問題や詩の歴史に対向して書いている人たちは素晴らしいなと。僕にはまだできないというか、到底追いつかない。

-やっていきたい気持ちはありますか?

遠藤ヒツジ:やっていけるのであれば、やりたいですね。社会とかそういうことを考えて、書いている人は素晴らしいと思うので。僕は僕個人の中にある社会性には触れることはありますけど、社会全体というより要素の一つとして紛れ込ませるぐらいが今の自分の中で限界かなと思いますね。

『今思い返してもどういう感覚かはわからないけど、”見上げる”という感覚がなかった』

7.子供の頃のエピソードを教えて下さい

遠藤ヒツジ:自分の家は3兄弟なんですけど、うちの家は兄貴がひとり遊びが苦手で兄弟や友達と遊んでいないと落ち着かない。僕はひとり遊びが平気で土日ひとりで出かけるのも全く苦じゃない。昔からそんな感じなんですけど、子供の頃の感覚は意外に覚えていて、ひとりの時の方が記憶の定着が良いんですよね。

母親の持っていた手鏡を上にかざして天井を映す。これを覗きこみながら歩くと、天井を歩いた気分になる。この体験はひとり遊びでも印象的でしたね。

-視点の移行といいますか、ヒツジさんの作品に通じるエピソードですね。

遠藤ヒツジ:本来だったら段差がないところも天井には段差があって、そこをびょんと飛ぶとかそういうことをやっていたり、あとは今思い返してもどういう感覚かはわからないけど、”見上げる”という感覚がなかった。今、上を見るとランタンが見えるじゃないですか。これが”見上げる”とはもちろん理解できるんですけど、小さい時は”見下げる”という感覚しかなくて、その高さに自分の身長が伸びている、視点が伸びているというか、だから距離感がわかっていなかったんですね。今では「どういうことなの?」と思うんだけど、それは覚えていますね。

「小さい頃によく遊んでいた公園」

-“見上げる”という感覚がなかった…それは、考えたこともなかったです。

遠藤ヒツジ:目の中にちらちらとゴミみたいなのが飛んでいる飛蚊症*20ってわかりますか。小さい頃はあれが強くて、目をつむるとチビチビと光みたいなのが写るんですよ。それが当然だと思っていて、「カラー夢」と呼んでいましたね。「カラー夢」ってどういう語感なのって(笑)

-何だか、まろやかです(笑)

母親から飛蚊症と教えられて、眼鏡をしてからはあまり気にならなくなりました。小さい頃から乱視で目がぼやけていたんですけど、裸眼という感覚がそもそもなくて。視界って他の人と区別ができないじゃないですか。「明瞭にみえている」というのがそもそも分からなくて、ぼやけているのを正解として小4ぐらいまでは眼鏡を掛けていなかった。クリアになった時は「こっちが正解なの?」と戸惑いましたね。斜視だと目の焦点が合わないんですけど、片方を合わせて、もう片方を合わせようとすると最初に合わせた方がずれる。

-興味深いですね。

遠藤ヒツジ:目が同じ方向に向いてはいないので、片目ずつ、見えている景色がちょっと変わる。そのせいなのか、目に関することは印象深いことが多いですね。

-なるほどです。

遠藤ヒツジ:あとは、たいした事故ではないんですけど、小学校のプールにでかいビート板みたいなバラエティでもたまに使われている浮島があって、子供が10人ぐらい乗れて、その周りにいる5,6人が水の中からその浮島を押してひっくり返して遊ぶんです。みんなが浮島に乗った状態でひっくり返った時に真ん中にいると、もう上がれないんですよ。横から出ればいいんですけど、子供だからパニックになるじゃないですか。それで、ものすごく時間がスローになった。なかなか出られない時間があって。そういう時間の感覚が急に狂う時がたまにありますね。

-スローになる時に共通していることはあるんですか?

遠藤ヒツジ:どうだろう。水に潜っていると多いですね。水の流れる山みたいなので遊べる水上公園で、2メートルぐらいのところから足を滑らせて落ちちゃった時もスローモーションになりましたね。自分が落ちた瞬間が上から見えているというか。そんなに多くはなかったけど、水に潜ってみようと思ったら信じられないぐらい潜れたり(笑)普段は15秒くらいなのに30秒経っても平気で潜れる。苦しくないのに、恐くなってあがっちゃった。子供の頃はそういう感覚を持っていましたね。

-不思議ですね。話は変わりますが、”遠藤ヒツジ”という作家名はどこから来ているんですか?

遠藤ヒツジ:end of からですね。”ヒツジの終わり”という意味です。

-なるほどです。”ヒツジ”はキリスト教の象徴としての意味合いもあるんですか?

遠藤ヒツジ:そうですね。犠牲や供物になるイメージですね。

-先ほどちらっと聖書がバックボーンにあると伺いましたが、その辺りのお話をお伺いしたいです。

遠藤ヒツジ:そうですね。僕はクリスチャンホームで家族全員がキリスト教の家庭で生まれた。生まれた瞬間から教会には通っていて大学まではずっと行っていました。川に身を浸すみたいな儀式*21を教会の中で行って、正式に信仰者として認められるんですけど、僕も僕の兄弟も小学生の間にそれを済ましていましたね。小学生の時って正直何をしているか分からないじゃないですか。まだ迷う段階にすらいないので「止めろよ」と思うんですけど(笑)

「洗礼式の様子 (武蔵ケ丘カトリック教会)」

-たしかにです(笑)

まあ、儀式を受けたこと自体は後悔していないです。仕事が忙しくなったりして今は教会に通っていないけど、通うこと自体は全く問題がないと思っています。それこそ、遠藤周作の『深い河』に出てくる主人公はキリスト教を信仰しているけど、「仏教も正しい」「どこの宗教も正しい」「見ている神様の姿が違うだけだ」という考え方です。

「では、なぜお前はキリスト教を信じているのだ」と言われて、「キリスト教の姿の神様が僕を引き寄せた」と言っていて、僕もそれが一番正しいなと。基本的に何を信じていてもいいと思っていて、お金のことだけを信じている人もいれば、スピッツの草野さんみたいに「カエルを神様だ」と言ってカエルを信仰してもいいし、何を信じていてもいいけど、一番嫌なのはそこに強制力や暴力が入ることが一番ダメです。それが入った時点でその人の信仰心は無くなると思います。

「新約聖書-(1954年改訳/日本聖書協会)」

-なるほどです。

遠藤ヒツジ:過激派、宗教がおしつけがましいものになった瞬間が恐い。僕は勧誘はアリだと思うんですよ。自分が宗教に入っていて、宗教に携わろうか迷っている人に「こちら、どうですか?」と勧誘するぐらいはいいけど、断ったら何度も勧誘してくるのはナシだなと。一回、声を掛けたらそこまでだなと思っていますね。

親身に何度も声を掛けて心変わりする人もいるから、その人との関係性があるだろうけど、そこに強制力が出てくるとか聞いている人自体が辛くなっちゃうのは本末転倒だと思います。なので、宗教自体は何を信じていても、信じていなくてもいいし、ハロウィンやってクリスマスやって、正月やって…その方が日本人らしくて、イベントがたくさんあった方が楽しいからいいと思います。

-そういったラフな側面は大切ですよね。

宗教はとにかく利権が絡まない方がいいと思うので、宗教法人はある程度お金を稼がないと生活ができないからお金のことを考えるけど、宗教の心みたいなのはお金に関わらない方向で考えていた方がいい。その人が辛い方向にいかなければ基本的には OK だと思います。


*17 SPIRIT…2014年12月より毎月第1月曜日に開催されているポエトリーリーディングのイベント。
*18 大島健夫…詩人。2021年に「希少生物のきもち」をメイツ出版より刊行。
*19 URAOCB…スポークンワードのアーティスト。2015年にファーストCDアルバム『STRAIGHT LANGUAGE』をリリース。
*20 飛蚊症…何もないのに目の前に黒い陰や糸くずみたいなものが見える症状。
*21 川に身を浸すみたいな儀式…洗礼式、バプテスマを指す。キリスト教への入信の儀式。


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